カメキチの目
先日、私の子どもくらいのお歳の読者(「マミーさん」といいます)が、「夫婦が睦まじくあるために」の「ケンカのしかた」を、とっても読みやすく、納得しやすく書かれていました(すばらしかった!)。
こんどの記事に限らず、読者の心をワシづかみにされるマミーさんですが、1月4日のぶんをご本人の許しをえて掲載させていただきました。
先に「すばらしい!」と感嘆したあとなので、私のつまらないケンカ話は「どうしようか?…」と悩んだのですが、まっ、こういうつまらぬのもある、恥さらしも「反面教師」にしてもらえるかなと思い、やっぱり書くことにしました。
(長年つれそっていても、「思いのズレ」を原因にケンカすることがあり、もっと若いときにマミーさんのこの記事にあいたかったです)
「つまらん、つまらん」とクソ真面目に演じる大滝秀治さんのやつ。
それ以上に「つまらない」「くだらない」のが、私の夫婦「ケンカ」(バージョン豊かで形はさまざまですが)。
さすがに歳とって少しは「賢く」なり、バトル数は減ったけれども、賢さが足りないのか絶えることはありません。『トムとジェリー』のようにかわいく、大の仲よしの裏がえし(ときに「そうかも」と思うのは願望)ならいいのですが…
あとで冷静になり話しあっている(仲なおり)と、100%私に原因、きっかけがあることに気づきます。
すぐそのことに気づいて謝ればいいのですが(「男の沽券」とまではなくても、「我の強さ」もあり、すなおになれない《時間をおけばすなおになれるのですが》)。いくらいい加減でご都合主義でノー天気の私でもさすがに自己嫌悪に陥ります。自分の醜さ、いやらしさを痛感せざるをえない。
思えば「ケンカ」はリトマス試験紙みたいなものだと思う。何もなけりゃ酸性でもアルカリでもいいんですが、「ケンカ」すればあぶり出される。見たくない自分や相手も見えてくる。
「見たくない」ものを見られ、「それがホンネでしょ!…」と泣かれたぶんには、トホホ…
こっちが泣きたくなる(だいたい女性のようには、こんな場面で男は泣けない。相手が泣くと、私は「女を泣かす」ヒドい男になる。トランプどころではない)。
「ケンカ」というものはじつにやっかいなもの。若くても老いてもそれは変わらない。
「ああ、やっかい…だからケンカはいやなんだよぉー」
そうならないためには、①そもそもしないこと。②誤ってした場合、すぐに謝ること(ただし、つまらないケンカに限ります。相手が不倫したとか、冷めた関係になった…など深刻なものは別)。それに、マミーさんの記事を読ませていただいた今は、「不機嫌の椅子」の考えを①や②の前段に据えます。
ついこの前のつまらん「ケンカ」で、弁解じみたことを私は言った。
パッと出てきた言葉は「射るような眼(まなざし)で…(こっちを見ないでくれ)」だった(もちろん反省!)。
それは、身体障害者になったことの「劣等感」「負い目」「被害妄想」みたいなもの。「」のそれぞれは違うけれど、入り混じったネガティブな感情。
これまでそれほど自覚してこなかったが、自分の内面にそんな「塊」が滓(おり)のように淀んでいるのではないかと思った。
(もう《障害者になって》11年半になる。これまでは自分の性格、鈍感が、ネガティブになることを避けさせてきたのだろうか。これは私の一種の「生存戦略」だな)