カメキチの目
内田樹さんはしばらく前までは大学の教師で、
世界(とくにフランス)の思想・哲学の専門家。
内田さんは、レヴィナスという哲学者を(学問の上だけで
なく人生の)恩師として尊敬し、慕っておられる。
私は「レヴィナス」という名前自体が初耳だった。
だから、著作にはよくレヴィナスが出てくる。
(『内田樹による内田樹』にも当然でてきた。最後はレヴィナスについての2冊)
レヴィナスは難解と言われているらしいのですが、内田さんはまったくの初心者で
あっても納得がいくよう、わかりやすく述べておられます。
(読者にわかりやすい書き方をとても意識して書いておられる気がする)
読者がわからないと本を書く意味がないと、暗におっしゃっているかのようだ。
私は、文学、絵画、彫刻、工芸、音楽、映像などの芸術は感覚、感性で感じるもの
だから理解できる・理解できないというレベルのものではないと思う。
が、芸術ではないもの(「非アート」?)は道理があって、わかる、理解できる
(読んですぐではなくとも)必要があるのではないかと思います。
■『困難な自由』
そのとき外国で大学の先生をしていて自身は
難を逃れたが、家族をはじめ親しい周りの人々を
ホロコーストで失った。
その言葉に言い表せない過酷な経験が彼の思想の
根底をなしている(と、内田さんは言う)。
自分だけが生き残った、生きているという事実を
どう考え、どう自分に納得させればいいのか?
「自分が生き延びたのは偶然に違いない」と
レヴィナスは確信した。
これが彼の思想の原点(だと、内田さんは書く)。
【引用】
〈恐怖に基づいてものを見る〉
あまりに理不尽な状況に直面したとき、
僕たちはその理不尽さにまっすぐ向き合って「筋が通らない」と抗議し続けること
にしだいに疲れて、どこかで「もう、どうでもいいや」と屈服してしまう。
理不尽さを受け容れてしまう。
そうすると、少なくとも「理不尽に抵抗することの重荷」からは解放されます。
心理的にはずいぶん楽になります。
体育会系のクラブや自己啓発セミナーやブラック企業の新人研修は
この人間の「弱さ」を熟知した人間が設計したものだと僕は思います。…
かたくなに筋の通ったことを言い続けて無駄に消耗するよりも、
とりあえず「体力を温存する」方向に舵を切る。…
そういう人を傍らから見ると、葛藤もなく、手際よくことを進めているわけですが
それを「自由」と呼ぶことはやはりできません。
〈自分の「外部」に条理の秩序を設定する〉
自分がほんとうに自由であるかどうかを判定できるのは、自分自身ではなく、
ある種の「外部」でなければなりません。…
レヴィナスが自由の条件として提示するのは、…
(注:赤字はこっちでしました)
重ね合わせて考え、読み解くなかで、「自由」を
論じた。
前は、〈恐怖に基づいてものを見る〉。
私は深く何度もうなずいてばかりだった。
後は、〈自分の「外部」に条理の秩序を設定する〉
人間が本来もっている弱さ、頼りなさを̪しかと認めなければならない。
「人間は弱い存在、そして頼りない」ので、律法(ユダヤ教みたいなもの)が
外部になければならないということ。
考えればそうです。
内面に関わる宗教や倫理など(「律法」)だけで、人々の集団(共同体、社会)が
平和に成りたち持続すればいいですが、そうはいかないからこそ、外面からも
律する(規制する)ため「立法」が求められるのでしょう。
法に基づき制度もつくられ、整備されていく。
(大きな集団になると、いろいろな人間が出てきて争いごとも増えてくるので、
個人一人ひとりの心(道徳・倫理)に任すわけにはいかなくなり、法制度などの
心の外部が必要になる)
その一つ、司法。「どっちに言い分があるか?」というものは、共同体などの
小さい集団のうちはみんなから信頼され尊敬されている長老が独占していても
文句は出なかった。
(現在の「コロナ禍」報道をみていると、「自分だけは」という人が出てくるので
法令など外からの強制が必要なのかもしれない。但し条件として、必ず国が確実な
安心を保障するための具体策を講じなければならない《冗談のような一家にマスク
2枚、国民一人ひとりに10万円では話にならない、と私は思う》。
また「自粛」「要請」の効果は、「外からの強制」ではないのでどれほど高く
掛け声かけても、それを呼びかける指導者・長が国民、市民にどれだけ信頼されて
いるかによっても違うことを感じる、と私は思う)
(グーグル画像より)
【引用】
〈「人間の核」を失ったところから始まる哲学〉
生きているのがあたり前だと思っている。だから、病気になればあたふたするし、
誰かに身体を傷つけられたら「何するんだ!」と腹を立てる。
でも、戦後のレヴィナスにとって「自分が存在すること」はそれほど自明のこと
とはもう思えなかった。…
生き延びたのは偶然だ、そうとしか思えなかった。…
(この後しばらくの間、ホロコーストという「受難」に対して自分はどう向かえば
いいのかとレヴィナスの考えたことが続く)
善が勝利し得ない世界で受難するものは、神が自分を救うために顕現することを
願ってはならない。
この世界を人間的なものにするのは、神の仕事ではなく、人間の仕事だからである
神はおのれのひとりの双肩に世界を人間的なものにたらしめる責任を感じることの
できる人間の全き成熟を求めている。
レヴィナスはそのような理路によって、「善が勝利し得ない世界への神の不介入」
という痛ましい体験をこそより成熟した信仰のよりどころとする道を示したのです
〈存在根拠は自分で作り出すしかない〉
誰かが自分に代わってこの世界を善きものとしてくれることはない。…
この世界が人間の世界である限り、それは私の仕事である。…
逆説的な言い方になりますが、
「自分がここに存在することにあらかじめ用意された根拠はない」という命題を
引き受け、「それゆえ、私が存在することの根拠は、私がこれから自力で構築する
しかないのだ」という実践的な宣言をなすものだけがおのれの存在根拠を
見出すことができる。…
(注:()の追加、赤字はこっちでしました)
「この世界を人間的なものにするのは、
神の仕事ではなく、人間の仕事だからである」
「自分がここに存在することにあらかじめ用意された
根拠はない」
「言葉に酔う」という言葉があるけれど、上の言葉に
酔った気がした。
同じような意味の言葉はいくつか聞いたことがありますが、
世の中を人間的なものにする「仕事」は神さまに任せることではなく人間の
「使命」「任務」と考えたことはなかった。
(ただ「この世界を人間的なものにするのは…」というのは、たいそうなこと
ではなく、先人が手にした《たとえば選挙権のような》人としての権利を、
《たとえば誰に投票したらよりよい日本になるだろうか?と自分の頭でちゃんと
考えるようなかたちで》実行することではないだろうか。
また、「偶然」という観点から自分の生きていることを思ったことや
他な人生であったかもしれないと想うことのたいせつさは考えたことあるけれど、
生きていることの「根拠」まではなかった。
こんな「生きている」というあたり前の事実を思ったり考えることのない
平々凡々の毎日がいちばん。そういう平和がありがたい。
でも、たまには深刻にあたり前に、慣れっこになっていることに目を向けてみる
たいせつさを感じた(突然おとずれたコロナウィルス禍を連想)。
〈オマケ〉
話が変わりますが、私はよくちょっと「硬い」ことを書く。
書いては(そういう本を読んでは)ウンウンうなずく。
それを見て「男(私が男の代表であるわけないのに)は理屈っぽく物事を考える、
むずかしく考えてたいへんだね。女(ツレが女の代表であるわけないのに)は
直感的にわかる」という意味のことをよく言うけれど、それもうなずく。
若いころ。ケンカの理由は、私には必ず1+1=2でなくてはならなかった。
3とか4、-2になると頭が混乱し悩んだ。
老いたいまは、「そういうこともあるわな」と思えるようになった。
ついでに
老いたいまは、「コロナの責任は中国にある、いやアメリカが…こんな低次元で
お山の大将を争っているようでは私たちの先はみえている」と思った。