kame710のブログ

2006年7月10日高所から転落、障害者となり、オマケに胃ガンで胃を全摘してなおかつしぶとく生きています

2018.10・9 リチウム

                                                  カメキチの目

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どんなに不便な土地に住んでいても、祖先への崇拝と生まれ育った故郷、自然への感謝・恩恵を忘れない人たち。しかし否応なくそこにも押しよせる現代文明。

(世界各地の姿を伝えるテレビ番組で、南米チリのリチウム採取の現場をやっていた)

 

「人間が生きるということは何だろう?」「技術の発展・文明とは?」

いつものように首をかしげた

 

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地球の各地で、ヒトの普遍的な思いがこめられた生活、風習・祭礼などの儀式が多様な形で残され続いています

(忙しく立ちまわっているばかり《かっての自分はそうだった》では見えてこない、感じられない風景、世界が存在する事実

 

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 スマホをはじめとする最先端のコンピュータ技術。

 その作動に不可欠の電気(エネルギー)

 電気をきわめて容易に供給するリチウム電池

携帯電話は通信・情報伝達から、カメラ撮影などさまざまな機能を持つようになり、いまやスマホで、各種アプリの搭載を通じ「革命的」に便利になった。

現金にかわる決済機能も可能となり、さまざまな生活機器の操作(IoT)もできるリモコン機能も備えようとするなど進化し続けている(将来の自動運転システムなどにまで)。

 

いくらスマホがすばらしくても、電気エネルギーがなければ「画餅」に終わる。

(そのうちリチウム涸渇。遠い先はリチウム充電にかわる新たな電気エネルギーを貯めておける物質が発見・発明されたりしているのでしょうか《そのときはそもそもエネルギーとして「電気がいちばん」と言っているのかどうかわかりませんが》。ともかく現代では間違いなくリチウムは重宝されています)

 

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番組をみて 

①あらためて、「消費は作られる」と思った。

 

「便利・快適な生活」が人間の本能的な欲望とするならば、それをかなえるのが「経済」ならば、それに応えてくれるモノ、「商品」を求める(消費者にとっては「買う」)のは人間の自然な行為。

またそれを満たす経済活動は企業の社会的な役割(見方によっては「社会貢献」)。

ゆえに、人々が欲しがるモノは、「こんなのが欲しい」という前に作らなければならない。

(そうしないと他に越される。負ける)

正確に言えば、先に作って、作ったモノ(商品)を「こんなのが欲しかった」と思わさなければならない。

人々から欲望を引きだし、駆りたてるのは商品開発・売りこみのイロハなのだ。

 

スマホの進化から、つまらない想像をしてしまった。

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生物レベルでこういう人類の姿をみていると、気の遠くなる未来では、人類は進化をとげ(もちろんそのときまで人類が続いていればの話)、「スマホ」が内蔵された、つまり「スマホ」の機能が血肉化した身体になっているかもしれない。

そういうのが、火星などで生きているのだろうか。

 

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②チリのリチウム採取現場がテレビ画面に映っていた。

 私たち日本人によく似たモンゴロイドオジサンは、先祖伝来の自然ゆたかな大地が破壊され、とくに水が涸れることをすごく心配されていた。

 リチウムを含んだ大地からそれを採取するためには、大量の地下水が必要とされるのだ。

「大いなる自然。それはとてつもなく豊かな存在。われわれはそれに守られ、その恵みを享けて生きてきた」という意味のことをオジサンは言う。

 

 採取現場の殺風景な、広大かつ荒涼とした景色のあと、すぐそばの緑いっぱいの草々のなかをゆるいカーブを描いて小川が流れていた村が映された。

一瞬、私にはその風景が日本の農村に見えました。

 ある家で、粉にしたトウモロコシを水でこねて焼いた主食を天(神)に感謝し、家族みんなが笑いながら食べているのが心にのこった。

 

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③たまには地球的な視点に立ってみることの必要を感じる。

 

「人類みな兄弟」のような気もちに人類みながなれば(それが「空想」、「ぜったい実現不可能な夢」とは思いますが)、リチウムだって金銀銅だって、すべての地球資源は(人類いがいの生きものをふくめ)そこに暮らすすべてのものに平等なので、その使いみち、使いかたをめぐってみんなが参加し話しあえばいいのだが…。

 

その番組はほかの世界もやっていました。インドネシアのフローレンス島。

そこでは水田が、(日本のような「田」の形ではなく)まん中の一点に向って放射状に区分けされていました。村人みんなが納得いくように平等に土地を分配(「納得がいく」ためには家ごとの平等じゃなく、その家ごとの住人《家族》数に応じて)しているとのこと。

土地の平等な分配だけでなく、「放射状」の形は〇に拡がり、〇は円相で、平等につながります。平等ではあるけれど、まとめるリーダーは必要。それが放射のまん中の一点なんですね(そこに位置する人はぜったいウソつきであってはいけません)。 

フローレンス島の村々も、「高度成長期」の日本と同様、押しよせる現代文明の魅力の前に、人々のつながり(地域共同体)は壊れつつありました。

 

 たまには過ぎさった時代をふり返ってみる必要も感じる。

 

 たとえ昔に戻れずとも。

 

 

[オマケの話]

またテレビNHK・BSの「京都発地域ドラマ」)からですみません 

あるとき、大学(たぶん、京都大学でしょう)の古い寮の取り壊しの話が大学当局から一方的に出された。理由は(表向きには)耐震に問題があるということ。

住民の学生たちはとうぜん反発した(そもそも彼らはその古い寮での生活に憧れて入った) 

自治が尊ばれる校風の大学。

寮も住民学生たちの自治的な運営がなされている。

 

自治」はいいのだが、実態は「自由奔放」、悪くいえばゴロゴロ自由、だらしない住民たち。

 

あたり前のことだが、住民の学生もさまざまだ。

大学側に勝てっこないとあきらめ(取り壊しされてもしかたない)ムードただようなか、「そんな自分たちが『自治』尊重、『多様性』万歳と大学当局とやりあっても敗北は明らか…」と嘆き「決起」を促す寮友もでてきた(苛だった彼は、みんなで飼っている寮の飼いネコにまでヤツあたりする)。

 

そんなとき、

(この難局を都合よくはかろうとする大学側の姑息な手法は)うるさい寮生たちの自治会リーダーの姉(彼女は大学職員)を事務所窓口にすえることによって彼らを懐柔し、追いだそうとすることだった。

寮の自治を守るためとはいっても、リーダーは窓口の姉を相手に大学とはりあう気にはならない。

かくして、いったんは大学側はイヒヒヒ…

 

無力感ただよう寮の住民たち。

そこにまるで妖精のごとく現われた女性。よく目を凝らせばリーダーのお姉さん。

彼女は窓口担当をやめたとのこと。そして、彼らにこんな意味のことを言った。

「私は、機能・効率重視の世の中だからこそ、いっけん無秩序な、好き放題な暮らしも古いこの建物(寮)もたいせつにしてほしい。ガンバってほしい。弟にもそう伝えてください」

(こんなこと言っていいんですか天下のNHKさん。でも、よく言ってくれました。作者さん、ディレクターさんかプロデュースさん、ありがとうございます)

 

 

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