カメキチの目
「推理」
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『相棒』という人気テレビ番組がある。
物語はたいてい、主人公の刑事(杉下右京)が事件現場で感じたちょっとした違和感、小さな事実(ほかの捜査員には気がつかないこと《気がついていてもどうでもいいと彼らは思っていること》)が発端となって解決する。
主人公は、その「違和感」にとことんこだわる。
事件現場にいあわせた人に、おだやかな口調で
「ボクは細かいことが気になるのでしてね」
と(おだやかながらも)ズケズケ訊く。
イヤになるくらい毎回そう。
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内田樹著『街場の読書論』より【引用】
あるものを見たときに、継時的にそれを配列して、次に何が起きるかを推理する力と、あるものを見たときに、そこに至るどのような「前段」がありえたのかを推理する力は、まったく異質のものである。前進的・統合的推理をする人間は、一連の出来事を説明する仮説を立てようとするときに、「うまく説明できないもの」を軽視ないし無視する傾向がある。…
「うまく説明できないもの」に反応する知性、それを「導き手」として「前段」を「案出する」力、それがどれほど稀有のものであり、また真に知性的なものであるかを、シャーロック・ホームズが嘆くように、まだ人々には十分に理解されていない。むろん、私たちの国でも「遡及的に推理する」ことのたいせつさを語る人はほとんどいない
主人公の「細かいことが気になる」(「違和感」探知能力とでもいうのでしょうか)ことこそ、本の棒線部分「うまく説明できないもの」を見つけ(気がつき)、それを「軽視ないし無視しない」ことなんだろうと思った。
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(引用部分は有名な『シャーロック・ホームズ』の作者コナン・ドイルの言葉。内田さんが自著でシャーロック・ホームズの読書をすすめているものです)
推理の際、(「前進的・統合的」、「遡及的」という二つに分類するのは私はあまり興味ないけれど)「うまく説明できないもの」にこだわる姿勢がとてもたいせつということ。
「細かいもの」でもなんでも、「アレっ?」ときたら面倒くさがらず、こだわること。違和感を持ち続けること。
(そう思ってサスペンス番組をみれば気がつきますが、どの事件でも、解決、犯人特定の糸口はたいてい小さな事実の発見から始まる)
個人的には『相棒』以上に好きな『遺留捜査』という番組では、主人公は被害者の殺された現場に残されたちょっとした遺留品を見つけてそれに深くこだわるのです。
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小説、ドラマのような推理を意識をすることは日常生活ではほとんどない。
が、推理は「うまく説明できないものにこだわる姿勢」から起きるものだと思えば何もたいそうなことではないと内田さんの本で思った。
ツレは「これなんだろう?」と言うことがよくあります(私は「?」と思うこと自体が面倒くさくて無視)。
これは「杞憂」に終わった話でよかったですが、旅さきの電車内で、通路を挟んだ座席のサラリーマン風の中年男性の挙動に不審(違和感)を感じたツレは、感じてからは気なってしようがないふうでした(先に降りられたのでやっと安心をとり戻した)。
後日、(そういうことがあったことも理由の一つでしょうが)『「危険な人」の見分け方』という本を借りていた。