カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2018.9・28 『透明なゆりかご』

                                                  カメキチの目

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漫画が原作のNHKドラマ(先日、終わりました)。

 

主人公(アオイという女子高生)は産婦人科医院でアルバイトをしており、彼女の目をとおして出産現場で起きるさまざまな物語(1回1話)を描いていました。

「誕生」と「死」(中絶がほとんど。たまに母体の死も)という、「いのち」が織りなす現場に精いっぱい向きあう主人公。

彼女の心が強く伝わり、なんども魂が揺さぶられました。 

                         

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感想を三つだけ。

 

① ある回の物語は、アオイの幼ともだち(虐待で小学生のとき児童養護施設に入所した)が妊娠し、アオイの働く産婦人科に入院したときの話。

ふたりは大の仲よしだったので再開を喜びあった。

 

 幼ともだちは親からの虐待で、「私なんか生まれてこないほうがよかったんだ」と絶望的になったこともあるけれど、それを乗りこえてきた。

 彼女を「乗りこえ」させたものは、虐待した母(もう亡くなっている)のところから持ちだした『母子手帳』だった。

 

 自分が生まれたとき、母はどんなに喜んだことだろう!

 そのときの感激が母子手帳に書かれている。あふれる喜びが、母の直筆で。

 

「人は、一度でもだれかから『愛された』と感じるならば、以後の人生でどんなに苦しい、辛いことがあっても生きてゆける」

主人公の言葉に託した作者のメッセージが強く感じられました。

 

② 最終回は、医療技術の急速な進歩で出産前に胎児の健康状態がわかるようになり「産むか、産まない」かの選択が可能となったが、「異常」が見つかった夫婦のその選択をめぐって、また選択してからの物語。

無事に産まれても(現代医学ではどれほど手を尽くしても)ほどなく死んでしまうだろうといわれたけれど、夫婦は産んだ。母となり父となった。

 

 赤ちゃんは7日間だけしか生きられなかった。けれど、いのちは「透明」に終わらなかった。

 

 産もうという決意するまでの夫婦の姿、その重大な判断をするまでの産婦人科(さまざまな問題にぶつかりながらも「いのち」をだいじにすることをいちばんに、真剣に向きあう医者)たちスタッフの関わる姿をみていたら、「選択」や「自由」というものが人が生きるうえで何なのかと考えさせざるをえなかった。

 

「進歩」「進化」…要するに時間の経過とともに「先(前)へ進む」というのが人間をも含むすべての生き物の自然な姿、あり方だとしたら、私たちに押しよせる現代の(「科学」「技術」の)急激な進歩で、社会的・生活的な理由からの「中絶」という産まない「選択」だけでなく、誕生の前から(性別だけでなく)「異常」の有無までわかるようになって生物的な理由から産まないという「選択」まで増えてきたという事実をどうとらえればいいのだろう。

 一見したところ、「選択」肢が増えたことは(「異常」な子どもを育てるという苦労は選ばなくていい)「自由」の拡大のように見えるが、コトが出産という生物の一大事では単純にはいかない。

 選ぶことの苦しみが大きくなる。

(それは「不幸」なことのような気がしてきます)

しかしドラマでは、産みたいと言う妻が、またつくれば(産めば)いいと言う夫に「この子は『この子』、ぜったいに代わりはきかない」とかみつく。そしてそろって産むという決意をします。

「苦難」とわかっていても、その道を進もうとする。

 

「自由」の定義はさまざまなのだろうが、ここでは「~からの自由」ではない。

いちばんだいじにしたいもののために「苦難」を選ぶ。それは「自由」とか「不自由」の次元を越えるのだろう。

 

③ 一回いっかいの物語はどれも紹介したいものばかり。みんなすばらしかったです(あまりによかったのでツレは原作本を買うと言います)。最後は主人公のこと。 

 

 アオイの「いのち」をみつめるまなざしの、なんとすなおで温かいことか、とたびたび思った。

 アオイは原作者なのだろうが、ただただ一途な、新鮮な、曇りのない目なのだ。

「人はこうでなくてはならない」

自分をふくめて人間、社会にため息をつきたくなることが多いので、そんなエラそうなことを真面目に思った。

「私もアオイのようになりたい」と本気で思った。

ドラマをみていると、「この子(アオイ)は一生懸命にやっているなぁ、ガンバリやさんだなぁ」と感心せざるをえない(視聴者はだれもそう思うにちがいない)。

 

だが、アオイの「真剣」「ガンバリ」はちょっとユニークな形で現れる。

彼女は小さいときから、「普通」(ということはだいたいマジョリティで、マイノリティではない)を重視する学校では「問題視」され、「普通」や「常識」にとらわれたごく「普通」の親である母との間にずっとしっくりいかないものがあった。

アオイは、「専門家」から「注意欠陥・多動性障害」との診断を受けていたのだった。

(「注意欠陥・多動性障害」とは? 

ADHDともいわれる。正確な定義は医者・研究者によって多少ことなるけれど、本人が気をひかれた《あるいは気を向けた》モノゴトに強くとらわれ、ときどき周囲が目に入らなくなるほど集中してしまうらしい。そんな態度が他人には「奇異に感じられる」ことがある) 

 

                  ちりとてちん

 

〔お知らせ〕

10月1日からしばらくお訪ねできなくてすみません。

 

 

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