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(人目の方)
1966年。静岡(当時の清水市。いまは静岡市清水区)で一家4人が殺された。30歳の袴田巌(いわお)さんが容疑者とされ、逮捕。
裁判は、死刑。袴田さんは「やってない!」と無罪を訴え再審を請求するが、却下。逮捕はしたものの、最高刑をくだしたものの、法務省にも袴田さんがホンボシ(真犯人)との自信がなかったのか、長い間、死刑は執行されずにきた。
それが、この前、静岡地裁は「当時の捜査機関による証拠ねつ造の疑いがある」、よって「再審を開始する」という決定をくだした。
た、たいへんなことである。
ずっと昔(30年くらい前)、日本ではじめて再審の門を開いた免田事件というのがある。それは、衝撃的なニュースであった。
いまは孫とか愛する家族が増え、極悪非道な事件をきくと心情的に犯人が許せず、「そんなヤツ、死刑だ!」と叫んでいるが、冷静になれば私は「死刑制度」には反対である。
国が、判断をまちがえるということは、古今東西の歴史が証明している。人間がそれほど賢くなったとは思われない。なのに、国は、司法制度をつくり、まったんの警察組織をつうじて犯人をあげる。そこでは、あーぁ、オソロシや、国・警察の組織を守るため「面子」(メンツ)という体裁(テイサイ)を重んじている。
(でもホントのところは「メンツいちばん」じゃなく、本音は「自分いちばん」なのである。つまり、組織の中の地位や身分・イスがいちばんたいせつなのだ)
好きなサスペンスドラマでよく出てくるシーンにこんなのがある。「凶悪な犯罪を撲滅するには、ひとりや二人は犠牲になってもしかたない。それで多くの人々が助かるんだぞ。そんな理屈がオマエにはわからんのか!」と言う上司の管理官(ホントは「ホンボシ」はほかにいるんじゃないか?と少し疑っている)。が、このまま事件の進展がなければ「警察は何をしている!」とマスコミ・世間にたたかれる。たたかれれば自分のクビも危ない。
そういうわけで、勢い、「エエイ!やっちまえ」と容疑者逮捕にふみ切る。
(あんがい、「勢い(イキオイ)」とか「ノリノリ」というもんで、人は行動しているのかもしれない)。
「これ主婦の勘(カン))」と言って難事件を解決するあやちゃん(テレビサスペンス『京都地検の女』)。検察官がみんな彼女のような人権派ばかりだったら、冤罪がなくなるかもしれない。
でも、司法・法曹にたずさわる 人々は、とびぬけた人権感覚が求めれているのではないか。こんな仕事に就く人は、その職業になにを求めているのだろう?O市長のH氏。もとは弁護士だったらしいが。
袴田巌さんのうしなわれた日々はどうやって埋められるのか?
なんという美しさ。
しばらく、この華麗さに
ひたりましょう。