カメキチの目
「どうしたもんじゃろうのう?」
まるで悩んでいることを楽しんでいるかのように、ゆっくりつぶやく主人公がとても魅力的だ。
NHK朝の連続ドラマは、4月から『とと姉ちゃん』というのをやっている。
先日やっと、『暮らしの手帳』ドラマではちょっと違う名の雑誌。を創刊するところまできた。
この雑誌。若かったころ。ウチでもよく読んでいたからなつかしい。
男の私でさえときどき読んだ。
『暮らしの手帳』が、なぜ、「暮らし」であり「手帳」なのか。よくわかった。
主人公は、敬愛する花山という男といっしょに出版の仕事を始めたく、しつこく彼を口説く。
が、彼は二度とペンは握らないと言う。
あの戦争を「聖戦」と信じ、庶民を戦争に駆り立てる仕事に従事したことを、戦後の庶民の生活を「闇市」などでつぶさに目にする中で、自分にも「責任」があると強く感じていたからだ。
食べるもの・着るものがどんなに粗末でも、家族みんながそろうこと、泣いたり笑ったりできること…。
そのなんでもない日常がどれほどたいせつなことか。「なんでもない日常」。いい換えれば、このブログでも、みなさんもよく言われる「あたり前」のことですね。
それを庶民から奪ったことに、自分にも責任があると強く感じている。
「あたり前」「当然」は時代や社会で変わるだろうが、「人間」というレベルではいっしょだと思う。
このまえ書いたムヒカさんも同感されるに違いない。
『とと姉ちゃん』をウルグアイでも(いや、全世界で)放送してほしい。
『暮らしの手帳』は広告を載せない。つまり、記事・中身で勝負の雑誌です。
創刊号は売れに売れ、すばらしい出発でしたが、すぐに資金不足、カネがたりない問題に直面し、社長の主人公はともかくも中身・記事がいくらよくても読者の目に触れなければ意味がないと思い、広告を載せることにした。
しかし編集長の花山は、広告を載せると広告主への配慮などが(ぜったいに)働いて、100%思うような(自由な)編集ができず、めざすものがつくれないと主人公と絶縁する。
(ドラマはそこまで展開しています)
私はつねづね、私たち庶民の一人ひとりが自分の頭で「考える」ということをせず、「長いものには巻かれろ」式に、自分より強いもの・自分より上(何とか長)と思っているものにyes…ハイ!ばかり言っておれば、必ずとんでもない痛い目に遭うと信じています。
「世論操作」とか大衆感化に、広報・広告・スローガンなどがどれほど影響を及ぼすか、その力の絶大なることを花山はわかっているからこそ、へそ曲がりの信条・わがまま(といって、ムヒカ大統領を想いました)と思われても、彼は曲げられなかったのでしょう。
ずっと前、旧ユーゴラスラビアでセルビアが民族浄化のために酷い虐殺をしていると世界中から非難されましたが、そういうふうに世界からみられるよう、アメリカの大きな広告会社(日本でいえば『全通』とか『博報堂』という広告大手なのでしょう)が陰で大量の情宣活動をしていたとある本で知り、私はそういうことを想像もしたことないので驚きました。
世界は、007のようにカッコイイと言って楽しむわけにはいかないのでした。