カメキチの目
先日、『人びとの自然再生』という2月に出たばかりの岩波新書を読んだ。
この本は、北海道大学の宮内泰介さんという方が自然の再生や保護の問題を、そもそも「自然」とは人間にとって何なのかという原点にまで立ちかえって考えたものだ。
住民の声にていねいに耳をかたむけてきたみずからの具体的な実践例を随所にはさみ、自然という人間が生きている世界、環境の本質みたいなものを誰にもわかリやすく感じさせてくれた。
めったに出あわない良書に出あった気分です。
「人間」という生物をその一部に含む自然。
人間が生き、生活する、社会や政治や経済もそれを舞台や背景として展開する「自然」。
それを通じ(自然をくぐるという一種の迂回路をとおって)、じっくり「社会」や「生活」を見つめなおすのも新たな気づきをもたらしてくれるかもしれないと思い、読んだ。
とにかく、本はとても読みやすかった。新書版という本のコンパクトさもよかった。
理解力がわるく、反芻しないとつぎの文章にうつれない私だが、途中でやめようとはちっとも思わなかった。
本は相互に関連しているが、便宜上いちおう大きく四つに分けて述べてある。
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①人間との相互作用の面から
②自然をみじかにふれ、楽しむ面から
③多様な価値の中での②が可能なしくみづくり
④人と自然を「聞く」
・①は、「自然」とは何かということを問題にする。
純粋な、人間の生活からまったく離れた「原生の自然」というのもあるけれど、本書ではそこまでは深いりせず、たとえば「里山(海)」のように、人間が生きてゆくうえで関わってきた自然、(たとえば縄文人にとってのクリ林、現代のヨシ原のような)人の手を加える栽培とまではいかないが、かといってまったく放っているのでもない「半栽培」という概念を用いると理解できるような自然に限る。
人間が生活のために自然を利用していることが即、自然の維持につながっている。
・②では、「コモンズ」という私たち一般人には聞きなれない言葉、概念が登場する。
みなさんがだいたいこうだろうと予想される意味と大差ありません。ちなみにウィキペディアでは「入会(権)」とありました。
だれもが「自然を身近にふれ楽しむ」には、自然を気軽に「利用」できねばならない。
ところが現実の社会は「私的(財産)所有」制度がつらぬいている。自然豊かといえども、(国立や県立などの公共の財産でない限り)そこが私有地であれば勝手に立ちいることもできない。
「ここから先、私有地につき立ち入るべからず。入った者は警察に通報します。罰金〇〇円申し受けます」。似たようなのは駐車場にもよくあります。
たとえば、都会に近所の人びとに緑の潤いを与えてくれている森があったとしても、どこかの不動産などの業者が(地元選出の議員とツルんで…《サスペンスのみ過ぎ?》)買い占め、宅地として開発、マンション建設などブチあげたらそれまで。資本主義社会では「所有」は「利用」に勝ちます。
イギリスでは「フットパス」といって、たとえ個人の所有地ではあっても、そこに安らぎを与える自然があれば歩けるとのこと。散策可能。
「所有は別の人だけれども一定の制限付きで利用する権利がある」のだそうです。
「所有」と「利用」のズレはなにも自然の享受に限ったことではない。考えてみれば私たちの生活、暮らしの場面にいっぱいあるだろう。
・③は、本書の中でおそらく唯一、専門的な話が述べられているところだと思える。でも、繰りかえすが、むずかしい話が書かれているわけではない。
「自然の不確実性」、「試行錯誤」、「合意形成」、「レデティマシー(正当性)」などをキーワードとして、その地域の自然の恩恵をみんなが享受できるためにどうすればいいのかということが述べられている。
一口に「自然保護」「自然再生」…といっても対象としての、保護・再生すべき「自然」自体の問題。
自然は不変ではない。コロコロよく変わる。ようするに「不確実」。
自然の「想定外」はあたり前とのこと。
それに関わる人、社会の側の問題。利害も価値観もさまざまだ。
ある地域の中で自然環境を問題にするとき、なるべく多くの人たちに理解してもらい、納得にこぎつけようとしたら、お互いの「さまざま・いろいろ」がぶつかり合う。
「レデティマシー」を乗りこえ、「合意形成」にこぎつけるためには、たび重なる話し合いが必要なことはいうまでもないが、
ともかく、とりあえず最後は多数決ということで決めたやり方で実践してみる。
が、都合の悪いことが出てくれば臨機応変に変更する。
そのための「試行錯誤」を許す、失敗を認めるという柔軟な姿勢(が強く望まれる)。
このことそっくりそのまま、議会政治にも当てはまるのではないか、と思いました。
・④が本書の核心だと私は思った。
本は、著者がかかわった東北三陸の北上町の磯で海苔などの「海の贈りもの」を拾い集める古老の語りで始まる。
本は途中で、なんども地元、地域のお年寄りの語りが入っていました。
終わりは次の一文で閉じられていた。
引用させていただきます。
【小さな物語を大事にする】
今日、環境問題が語られるときには、つねに大きな物語がつきまとってくる。地球温暖化、砂漠化、森林破壊、生物多様性、景観保全、などなど。
これらの大きな物語は、何らかの危機意識をもった人たちによって作りあげられてきたフレームだから、もちろん大事な意味をもっている。…これらの物語はときに、他の小さな物語を抑圧してしまう。生物多様性の保全を目的に設置された自然保護区が、これまでその地区を利用していた住民を追い出してしまう。…
私は…気がついた。こうやって小さな物語をお互いに聞くこと自体が、人と自然の再生に向けた合意形成、新しい自然と社会へ向けての物語の再構築になるのではないか。合意形成とは、多様な立場、多様な価値観の間での相互理解と納得のプロセスのはずだ。もし「合意形成」が狭い「制度」として導入されようとするなら、私たちはそれに警戒しなければならない。
だいじなことは「聞く」ことである。
いま、お年寄りから、聞くべきことことを聞いておかなければならない。あと何年もその方たちは生きていない。
死んでしまえば、多くのだいじなことが「消える」。
私もいまでは年寄り(古老まではいかなくても)ですから、本で語った方々の思い出話はとても身近に感じられました。
ところで、著者が上で述べられたことは「聞き書き」という民俗学の手法とまったく共通していることに気づきました。
つまり、地域の生活、自然、文化、歴史、伝統(祭礼、言い伝えなど)を、何もしなければ埋もれる、消えるしかないそれらを現代、後世に残し、伝えていくものを民族学とすれば、そこの、おもに「自然」につながるさまざまななものに焦点をあてるのが自然保護・再生ということなのでしょう。
〈地域の古老、お年寄りは、ていねいに、心をこめて聞いてくれる側がいれば、昔のこと、自分の知っていること、思い出を、生き生きと語る〉
話が飛躍しますが、私は 2016.2.27のブログ記事で『介護民族学』の本を読んでの感想を書きました。それは民俗学者であった著者(六車由美さん)がある介護施設の職員となって、中には痴呆症状をともなった入所者さんもたくさんおられながらも、長年つちかった「聞き書き」の手法で担当になったお年寄りから昔の語りを引き出してゆくもの。
そのお年寄りの人生がその方だけの「物語」として生き生きと語られてゆく(そのこと自体が、お年寄り・入所者の介護のたいせつな一部になっている)。
その昔話を著者も生き生きと聞く姿が記されていた。
六車さんはそれを「介護民族学」といい、介護の在り方に一石を投じておられました。