今日は「マトリックス」。
「マトリックス」とは、その物事の「基盤」、「母体」のこと。
この本での「マトリックス」のいわれかた、使われかたは次のとおり。
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「〈資本主義社会の「マトリックス」を超えて〉
学問の領域にも分業制が浸透していく中で、「哲学」もまた資本主義社会で「役立つ」もの
であろうとしています。…
(だが)必要なのは…物事を総合的に考える、本来の意味での「哲学」です。
〈「私」という罠〉
人は満員電車の中でコミュニケーションの回路を遮断し、ギュウギュウに詰め込まれてなお、
「それぞれの私」として存在するように努めることになる…
(身体レベルでの現実においては、自分を守り維持していくため「自分は自分」であるため、
満員電車にあっても他人の存在は意識の外に置くことに成功している。しかし)
身体レベルでの現実とは別にメディアを介して共有される共同世界が…
各人が「自分のこと」だけを考え、その結果「騙される」ことで経済が発展するというのが、
資本主義の「マトリックス」を考案した「哲学者」の考えでした」
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この本の著者、荒谷大輔さんは哲学者で、「人間」と「人生」、演じられる舞台
「社会」を、根本に立ち返ってとらえる、見ることが哲学の使命だと考えている。
(「根本に立ち返ってとらえる」とは、言いかえれば「物事を総合的に考える」こと)
(前回の話では)社会をみるとき、従来の「右・左」を「ロック・ルソー」に
置きかえれば、その社会の本質がよくとらえられるとのことだったが、それは
ロックとルソーが、「物事を総合的に考える、本来の意味での「哲学」」者
であったから。
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〈「私」という罠〉で述べられていることは、とてもおもしろかった。
一人でいるとき、いろいろな物事を思い考え、自分に沈潜することがあるけれど、
物理的に一人ではなくとも、たとえば満員電車のギュウギュウ詰め状態にあっても
身体が他人といくら強く接触していても(コミュニケーションしようとしない限り)
まじり合うことなく、自分の存在が脅かされているという意識はない。
「それぞれの私」としてある。つまり個人として存在している。
しかし、著者は
「身体レベルでの現実とは別にメディアを介して共有される共同世界」が
(私はここで「メディア」といわれているのは、テレビや新聞、ネットなどの具体的な、
目に明らかに見える《狭い意味での》媒体、広告・宣伝類だけではなく、生活しておれば誰でもが
無意識のうちに影響され刷り込まれるのを避けるのが難しい《広い意味での》物事もあると思う)
「メディアを介して共有される共同世界」の最大なもののひとつが「自由」
という幻想。
資本主義、すなわち自由主義市場は、「各人が「自分のこと」だけを考え…
「騙される」(騙されるのも「自由」)ことで経済が発展する」
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初めに書いたように、「マトリックス」とは、その物事の「基盤」、「母体」
のことだから、私たちの住んでいる、生きている世界のこと。
それを否定することは死ぬということになるから、それはできない。
そこで著者は、「マトリックス」の外に出てみようという。
「〈「マトリックス」の外に出ること〉
「私」という枠組みを外しさえすれば、誰でもいつでも実際に立ち戻れる…
(ここでいう「実際」は「真実」のこと。
「真実」なんてそもそもない」というのが真実かもしれないが、そう言ってしまえばオシマイ)
…
実際のところ、新宗教のようなものが、現代社会の日常から隔離されてなお盛んなのは、
それらが「マトリックス」の外の「救済」を呈示しているからだと思われます。
…
「マトリックス」の外に出ることは、それ自体において、社会的現実における行き詰まりを相対化し
「生きる力」のようなものを与えるでしょう」
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私たちが存在し、生きているのは「資本主義」といわれる社会であるという現実。
その事実は、この社会のみなが望まない限り変わらないだろうけれど、私が
「「マトリックス」の外に出ることは」できる。