カメキチの目
これも大好きな「禅語」(正確には、宋代の詩人の詩の一節ということですから禅語ではないのでしょうが、ここは「禅語」に含めます)。
「立夏」をとうに過ぎたというのに「春」ですみません。
(でも北海道ではついこの前ごろが盛りだった)
春 在 枝 頭 己 十 分
(はるは しとうにあって すでに じゅうぶん)
「漢文」を学校で習ったことなくてもだいたいの意味がわかりました(テレビのニュースなどで中国が出てくると、その映像に漢字の看板とかがあれば意味内容がわかるときがあります。中国語はまったく理解できなくても)
でもたいせつなことは、言葉の意味がわかっても詩人がこういう詩を書きたくなった心を感じとらなければ、それこそ意味がないですね。
やっと待ちわびた「春」がおとずれた。
春は梅、桜、桃…の花が次つぎに咲く。
(枝はないが)スミレ、タンポポなどの草花も咲く。
これ以上、春に望むものはない。
わたしは十分、満たされている。
「少欲知足」に通ずるものがあるようです。
「春」は「夏」「秋」「冬」にかえられる。季節やその移ろいだけでなく、
なんでもいいと思う。
足りないたりない…、もっともっと…が、便利・快適の今日を生みだしたのだと考えると、たえず前へ向く意欲、何かをかなえようとする姿勢、欲はたいせつ。
だけど、どこかで「ワシはこれでいいのダ!」と満足することも必要ではないだろうか。
と私は思ったが、「生涯現役」という言葉もあるし、そういう道もあると知った上で(他にもさまざまな道)自らが選択するのがいちばんですね。
「障害現役」になってしまい、死ぬまで働く(狭い意味での「勤務」ではないです)ことが選択肢から消えたのはたしかに残念でしたが、「はるは しとうにあって すでに じゅうぶん」(半分は「強がり」「あきらめ」(笑))。