「ことばの教育」という題名で2013年、国語の先生たちに講演されたもの。
強く心にひびいた3点だけ述べます。
グローバリズムの大合唱で、以前は中学校からだった英語が小学校に導入された。
(なんと2020年から、小学3.4年生必修化、5.6年生教科化)
著者は、英語能力の向上→コミュニケーション能力の向上→「国際人」の育成
かのような風潮を強く批判される。
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①〈 コミュニケーション能力の本質〉
コミュニケーション能力というのは、コミュニケーションが成立しなくなった局面を打開する力
ではないかと思うのです。
内田さんは仕事がら(大学の先生をしていた)外国へ行くことが多かった。
あるとき滞在先ドイツのコンビニ店員さんとのやりとりで、会話がうまくできず
コミュニケーションをとることがむずかしくなった。
で、咄嗟に思いついた手をためして成功。
(意思は通じた。コミュニケーションは成立)
そのとき、ピンチに陥ったときコミュニケーション(手ぶり身ぶりなどもよい方法)を
打開する力が真のコミュニケーション能力だと思ったそうです。
(「コミュニケーション」の成立は、発する側と受けとる側の相互的なもの。
このときのやりとりでは、客の内田さんの「臨機応変、創意工夫」をコンビニ店員さんがきちんと
受けとめ、しっかり対応してくれたからコミュニケーションが成りたった。
《コミュニケーション能力というのは受けとる側にも求められるのだろう》
ところが、硬直した組織にあっては、部下が《決まりきった》マニュアル以外の態度をとることを
管理者は忌み嫌う。
「言え」と命令されたことは言う。…
でも、それが相手に通じるか通じないかには副次的な関心しかない。
自分は言うべきことを言っているのだから、理解したかどうかは聞き手の責任である。
コミュニケーションが成立しなかったとしても、それは私の責任ではなく、お前の責任だ。
そういう他責的な発想が広く定着している。
という現状では、コミュニケーションは成りたたないだろう)
自分をふり返ってみた。
障害者になってどもるようになったばかりか、発音もうまくできなくなった。
言葉だけをみれば確実にコミュニケーション能力は落ちた。
会話能力は確実に落ちたが、コミュニケーションで困ったことはない。
(店で買ったとき、親切をうけたときは頭をさげる。《声には出さなくても》「ありがとう」の心は
伝えられる。
しかし、その用がなんであるかをきちんと伝えなければならない場合はユウウツになる。
書く、記入することもうまくできないので、ユウウツ)
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②〈グローバリズムと国語教育の崩壊〉
市場原理・競争原理が導入された結果、学校教育が荒廃したのです。
ある時期から、日本でも韓国でも、教育は「商品」であり、学校はその「売り手」であり、
子どもたちや保護者は「顧客」であるというスキームで学校教育が論じられるようになりました。
その結果、子どもたちの学習意欲が目に見えて劣化した。
(ここで著者は韓国のことに触れます→90年代から…学校教育にシンプルな「キャロット・アンド・
ステック(人参と鞭)」原理が導入されました。…
自国の言語と文学と歴史について、人々が関心を示さなくなった。
韓国語よりも英語に習熟し、祖国の文化にも、祖国の歴史にも関心がない。…
そういう人が韓国社会のエリートになってゆく)
教育は「商品」。
(「教育商品」のことではありません。教育商品は子どもたちの学力を伸ばす手助けとして昔から
教材などの形でいろいろ利用されてきた)
教育にとって、子どもたちや保護者は「顧客」「消費者」なのだ。
(教育が商品とは、「教育」により市場価値がちょっとでも相対的《他と比べて》に高い子どもを
つくる《出す》ことです。そのためには子どもたちを競わさせなければならない。
著者の痛烈な批判をお読みください)
↓
競争が激化するほど、子どもたちは学ぶ意欲を失い、学力が集団的に低下し始めた。…
(競争)レースでは、自分の学力を上げることと他人の学力を下げることは同義だからです。…
相対的な優劣を競わせれば、子どもたちは必ず周囲の競争相手が「学ぶ意欲を失う」方向へ
誘いこもうとする。
「みんなで高まろう」というのではないのです。「仲間」を出しぬかなければならない。
(「学ぶ意欲を失」うことは「生きる意欲を失」わせ、その究極的な一つのあり方が「ひきこもり」
ではないだろうか。ひきこもれば競争しなくてすむ)
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③〈言語とはきわめて政治的な存在〉
言語の政治性ということに関して、日本人はあまりにイノセントだと僕は思います。
言語というのはきわめて政治的なものだからです。…
(明治維新以降、なぜ日本が近代化において、他の東アジア諸国より早かったのか?
漢文ではなく英語やフランス語やドイツ語の方が「近代文明」の習得には有用であるという
功利的な判断が下ったからです。…
日本語を支配地域の国際共通語にすれば、日本人はその地での知的生産において
圧倒的なアドバンテージを享受することができる。
学校で社会科を学ぶようになってから「なんで日本のような小さい国が…」と
頭を傾げたことがある。
(日本は原料・資源がとても少ないから、それらを輸入し加工《「モノづくり」》し輸出する。
とうじ地理で習ったことしか思わなかった。言語のことなんか思ったこともない。それでも)
日本民族が優れているとか、そんなバカな考えはしなかった。
(戦後の「民主主義教育」を受けていたからか。「鬼畜米英」とくり返し聞いていたらわからない)
周りの国々を侵略し、自分の領土にしようとする驕った気もちにしたであろう
決定的な原因・背景に「近代文明」の習得があったこと、その中心となったのが
文化としての「言葉」、「言語」であったことはこれまで著者以外の本にもあり
知っていたけれど、「政治性」という視点で言葉をみたことはなかった。
昨今の「英語はグローバルな国際共通語」と国をあげての「英語熱」「英語化」の
状況をみると、講演の終りの次の言葉が身にしみた。
(自分の存在の核心にあるもの)日本語とは、2千年以上前からこの列島に住み、固有の言語を語り
暮らし、死んでいった膨大な数の死者たちの感情や理念や欲望や悲痛や愉悦を蓄積した
巨大なアーカイブです。このアーカイブとの回路は母語しかありません。