カメキチの目
秋も深まり、少しづつ紅(黄)葉もすすんできた。
春とともに、この季節になると日本に生まれてよかったと、老いてからはとくに強く感じる。
(自転車に乗り)「のぼり坂」のときは漕ぐのに必死だった人生。
「平坦」なときは地面をあまり意識することはなかった。
(乗れなくなったけれど)やっと「くだり坂」になって見とおしもよくなり、日本という土地のよさを感じられるようになった。
ここで問題です。
ケヤキ、ナンキンハゼ、イチョウ、ソメイヨシノ、キョウチクトウ、ハナミズキ、ニセアカシア、コブシ、シダレヤナギ、ポプラ、プラタナス、ヤマボウシ、トチノキ、タブノキ、ナナカマド (順序は意味ありません)
と聞いたらなにを連想されますか。
つまり、共通点はなんでしょう?
ピンポ~ン!
当たり。そうです。街路樹(公園木をふくむ)です。
先日、渡辺一夫さんという森林インストラクター(農学博士でもあり樹木の専門家)の『街路樹を楽しむ15の謎』という本を読みました。
上の青字はそこに出てくる15種の樹木なのです。身ぢかで親しい木です。
本は、それぞれの樹木の生態を含めたいろいろな特徴を教えてくれました(人に与えてくれる癒しや喜びなどだけでなく)。
街路樹・公園樹という形で自然(植物)を人間に合うよう利用する(つまり人工的に「維持・管理」していく)うえでのむずかしさ、さまざまな問題がとてもわかりやすく述べてありました。
(たとえば、人間の社会生活の変化に応じて樹種が「選定」される。結果、「剪定」などの避けられない手間や費用がかかる)
読んで、こんな身ぢかな樹木そのものと、それと私たち人間との生活との関わりを知ることがこれほどおもしろいとは思いませんでした。
上の葉っぱの写真。きょうの朝、久しぶりに訪れた近くの公園の桜です。
ところで公園の姿の無残に驚きました(この前の台風がいかに強かったのかを《倒木の多さ。しかもまだ放ったらかし》遅まきながら実感した)。
私的な出来事ですが、
3年前のある日。ときどき歩く道ぞいのみごとなシダレヤナギが根元から切断されていた。
(理由を告知せず、突然こんな「暴挙」をとる市役所に)腹がたった。
役所の「街路樹政策」はさておいて、本ではシダレヤナギの項目にこんなことが書かれていました。
【引用】
・平城京にも植えられた、多彩多芸な街路樹
・しだれた枝がユニークな柳
・日本人に愛された柳の歴史
・挿し木で1000年も生きてきた
・消えてしまった銀座の柳
・減少しつつあるシダレヤナギ
シダレヤナギは、根が浅く強い風に弱い(とくに台風。「柳に風」とはいかない)、生長が速いので剪定回数が多く、しかも剪定は技術的にむずかしいので維持がたいへん、寿命が短い、車の排ガスには弱い、…のだそうだ。で、減少しつつあるそうだ。
最後はこんなふうに述べられていました。
「1000年にわたり街路樹や並木として働き、文化の一翼も担ってきたシダレヤナギだが、実用的な街路樹がたくさん現われた現代では、忘れ去られていくのは仕方がないのかもしれない。これからの1000年を、シダレヤナギは生き延びていけるだろうか」
シダレヤナギのことを知って、私の立腹は少しおさまった。(それはいいのですが)
「これからの1000年を…」の部分がいつまでも気になった。
歳をとると、あした・あさってのことよりずっと先を想うようになります(それなり十分いきたと思えるようになるからでしょうか。それとも…?)。
シダレヤナギもほかの樹木たちも、人類が地球に現われるはるか昔に出現し、いまに続いている。
1000年後も人類が続いていなければ、シダレヤナギが生き延びているかどうかはわからない。
コトはシダレヤナギだけではありません。
他のさまざまな植物、動物もずっと続いてほしい。同じ地球の仲間として。
「仲間」といえば、『街路樹を楽しむ…』というこの本でも(前の雑草の本でも)、身近なところから「仲間」のことを知るたいせつさを述べていました。
仲間のことを知るのがこれほどおもしろいこととは知りませんでした。
(人でもそうですが、親しみ、愛情というのはまず相手を知る、理解することから始まるのだなとあらためて思った)