最後のきょうは、
④「善の懴悔」
(「懺悔」:キリスト教などでは「ザンゲ」と発音しますが仏教ではよく「サンゲ」といいます)
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④「善の懴悔」
【引用】「善の懴悔
倫理や道徳の世界では廃悪衆善が目的となるが、…廃悪衆善の〈あと〉が重要なのだ。…
とくに善の懴悔…
他者に善を行わんとする者は、微に入り細にわたって行わなければならない」
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「善かれ」と思いしたことが、相手にとっては善くないどころか、逆に傷つけて
しまうことさえある。
相手の気もちを正しく(ありのままに)汲むことは、とてもむずかしい。
(自分としては善意であっても、相手がそれを望んでいないとき「善意の押しつけ」になってしまう。
善行はよほど慎重でなければならない。
よく、「善とわからず善をなすこと」のたいせつさがいわれる。
むずかしいことだろうけれども、「独りよがり」「自己満足」にならないために。
「善行」もコミュニケーションの一つ。コミュニケーションは相互的なものだから、お互いがどれほど
気をつけていても「誤解」は避けられない。
「善行」を施す側と受ける《施される》側が親しい間柄にあれば、善行は断りやすい。
しかし、親しくない間柄のときは断りにくい。
そういう「力関係」への細かな配慮がとてもたいせつだと思った。
《福祉施設の職場にいたのでそういうことをよく感じた》)
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「懴悔」は心から反省するものだから、善いことをして「懴悔」するというのは
ヘンな気がするけれど、人間は誰しも善いことをすれば気もちが好いし、普通は
自分のした善行はその人にとって善いに違いないと思いこんでいる。
(「善かれ」と思い、信じているから行う)
「他人の受けとめ、心はわからない」
「ほんとうは、喜んでいないのかもしれない」
「ほんとうは、して欲しくなかったのかもしれない」
「そのときは望んだことであっても、いまは変わったかもしれない」
「(私の善意の)結果がこうなったのでは喜べないのかもしれない」
「他者に善を行わんとする者は、微に入り細にわたって行わなければならない」
たいせつなことだと思った。
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初めはウクライナ軍の軍事関連施設だけと言っていたはずなのに…。
粉々に砕け散ってゆく建物(誰が見ても軍事施設ではない)。
私はぬくぬくとした部屋でテレビを通してしか知ることができない(メディアの伝えることは
果たしてみな事実だろうか?どこまでが事実なのだろうか?)。
ウクライナの悲惨な現実を前にしたら上に書いたこと、「善の懺悔」がむなしく響く。