カメキチの目
『宗教と資本主義・国家』 池上 彰 佐藤 優 松岡正剛 碧海寿広 若松英輔
を読み、「宗教」、「祈り」、「信心」などについて
あらためて深く考えさせられた。
(一回では長くなりそうなので、二回に分けます。①のきょうは本じたいには
触れず、日ごろ自分の思っている宗教のことを書きます)
私は敬虔な仏教徒である。
突然の災難に遭い、こう(仏教徒だと)言えるようになるまでは、ただ実家が
地域の寺の檀家だったということだけで、しかたなく形式的、習慣的に信じている
マネをしているだけだった。
つまり、葬式のためだけだった)
いまでは朝晩、手づくり仏壇(金色紙を貼った菓子箱に
仏像いくつかを置いただけ)に手を合わせ、図書館に行くとき
道中のお地蔵さんに合掌する。
たまに神社仏閣をたずねたら、そこは多くの人々の
祈りや魂が満ちた場所なので、少し厳粛な気分になり
手を合わす。
しかし、参拝をルーティンのように毎日くり返して
いても、ときどき気になる。
「他の人の祈り方、作法はどんなのだろう?」
自分流の形・流れはあるけれど、私の参拝はぎこちない。
ある宗教、宗派の正式な信者(信仰に「正式…」もクソもないと思うけれど)
だったら、そこのやり方・形・儀式があるだろうから、それにのっとりスムーズに
行われているに違いない。
(自己流の形・流れというのは、「般若心経」を唱え、俳句ほどの長さのたまたま
覚えた呪文(真言)三つをモゴモゴつけ加えるだけ)
ーーーーーーーーーー
■ 他の人の祈り、参拝のやり方が気になっても、
私は自分のやり方できょうも仏壇に向かう。
無事であることを「奇蹟」と思って感謝し、
「みなが元気でありますように」と祈り、
そのときどきの不安・心配ごと(さしあたって今なら、
新型コロナウィルス)が「うまくいきますように」と願い、
身のまわりのことから世界平和までを願い、祈る。
(ところで、次回②の【引用】文にありますが「願い」と「祈り」は違うのでした
私は二つの違いをはっきり自覚せず、ニュアンスだけで使いわけていた)
「ご利益」は自分が、人間が願うことなので、叶うか
どうかわからない。
しかし、「ご利益」があろうがなかろうが、
その願いの実現云々とは関係なく、人間を超越した
絶対者、神仏の存在を信じるのが宗教だと信じる。
「ご利益」がどうでもいいわけはないけれど、あまりそれにこだわってはいけない
と思う。
■ 人間は弱い。
(というか弱いからこそ人間なのだろう)
神仏は、その弱い心を支えてくれる。
自分の力ではどうならないことがわかっているから
人々は祈るのだ。
やれるところまでやった(努力した)から、後は天(神仏)に…というのが
「正しい祈り方」ならば、私なんか正しくない。
(けれども、そういう正しくない人間でも、他人を陥れたり、ウソをついて
騙したりしない限り、愛と慈悲によっておおめに見てくださるに違いない)
「おたすけを」「なさけを」と神仏に、超越的な
ヘルパー的存在に、頼みの綱的に期待するばかりだけ
ではなく、もう一つ大事な働きが宗教にはあると思う
人間には、自分の利益のためならついついウソを
ついて他人を騙すような内面の弱さがある。
それを宗教は、そんなことしたら「バチが当たる」
「地獄へおちる」と律してくれる。
「おたすけください!」「ご慈悲を!」「神さま、お願い…!」と念じるだけで
心は救われる。願いが叶う、叶わないとういうのは別なこと。
(信じる、信仰とはそういうことだと信じる)
心にやましいことをしようとしたとき、「お前、そんなことしていいのか?」と
神さまが囁く。
(信じる、信仰とはそういうことだと信じる)
■ 私も人間、弱い。
弱いから、神仏を畏れる。
弱くない現政権首脳とその部下、高級官僚たちは畏れ(恐れ)ない。
だから、「モリカケ」のように平気でウソをつき、己を庇う。
自らを神仏の上に置く(彼らは「無神論者」?)。
天罰を怖れない、地獄の存在を信じていないのだろう。
夜、布団の中でたったひとりになったとき、彼らは何を思うのだろうか。
話が変わるが、私は安倍やトランプのような人物が辞めるまで「悪口」を書く。
神聖な国会で野党議員に自分の非を追求されたら嘲笑ってヤジを飛ばす首相。
この品格の欠如は神仏のようなものが彼の心に住んでいない、畏れというものが
ないからこそなせる業。
保守や革新、右左、そういった社会への考え・思想の違いというレベルの問題では
断じてない。
「人間性」という問題だ。