カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.4.21 「正しさ」より「生きる」

       カメキチの目

 

 

(注:タイトルを100%額面どおりには 受けとらないでください)

 

内田樹による内田樹』。

この本は内田樹さんがかつて書いた本の中から自分で選んだものについて、

あらためて述べた本。

ここで取りあげたことが何度かありますが、数年前に内田さんを知り、

ものの見かた、考えかたにとても惹かれてきました。

この本に取りあげられたご本人自選の何冊から3冊とり上げ、1冊1記事書きます。

 

■『ためらいの倫理学

 倫理や道徳を口にするときは、「躊躇」しながら

言うのがちょうどよいと、内田さんはいう。  

私には痛い言葉そう言われなくともためらいながら書いています)。

 

 

一つ強く感じたことを。

「正しい」ことよりも「生きる力を高める」

【引用】

ある種の言説が「ロジカルに正しい」ということと、それが「生きる力を高める」

ということは、まったく水準の違う話であり、

僕は「正しい」ことよりも「生きる力を高める」の方に興味があるのです。…

「正しい」ことと「倫理的」であることは違う 

                            f:id:kame710:20200401105520g:plain

 なるほど!

(内田さんはうまいことをおっしゃる)

 

「生きておればこそ…」という言葉がある。

 何ごとも「生きておればこそ…」である。

 死ねば元も子もない。

「正しい」と信じるものでも、「死」につながる

ようでは正しくはない(「悪い」といえなくとも)

と信じたい。

 

 相手を殺さなければ自分がやられるという戦場の

兵士。

 職務上とはいえ他人の命を助けるために、ときには

命を賭さなければならない消防士や警察官たちに道徳

倫理の「正しさ」求められるだろうか?

(同じことを、コロナの記事でも書きました)  

戦争などの「極限状態」をともかく招いてはなりません。

起こさないことに努めなければならない。 

 

 道徳・倫理の「正しさ」はそれとして、

個々人が社会で生きる中で、

「そのとき私はどうする?」を迫る「極限状態」を

起こさないための努力をしなければならないのでは

ないだろうか。

「努力嫌い」の私でもこういう努力は躊躇することなくしたい。

 

〈オマケ〉

いまのコロナウィルス禍は、ゆるいけれど一種の極限状態だろうか?

 

① テレビニュースで緊急事態宣言を受けてシャッターを降ろしていた店から

お金が盗まれたという報道があった。「火事場ドロボーなんて、なんというヤツ

と憤っていたら、テレビ画面の被害に遭ったご主人の言った言葉は、

「盗んだ人は切羽つまってやったんでしょう」だった。

店は鉄道高架下の個人経営の小さな焼き鳥店。

いちばんたいへんな目に遭っておられるというのに。

 

② テレビでお客さんが8割減のという観光地、閑散とした人通りをみる。

これからどうなってゆくのだろう(自分が商売していなくてもとても気になる)。

コロナでは生きのびられても、あとから死ぬ(自殺)人がでるのじゃなかろうか。

国民が「自粛」「休業」するのが現状ではいちばんのコロナ対策らしいが、律義に

自粛、休業するなどし、結果死ぬようなことになったら誰が責任をとるのだろう。

「自粛」も「休業」も「要請」であって「命令」ではない、

命令ではないので「責任」は発生しようもない、ゆえに存在しない、

となるのであろうか。

 

 

 

 

 

                          f:id:kame710:20171029114701j:plain

                           ちりとてちん

 

 

 

<