前回、『冴えてる言葉(2-2)』のはじめに、
「いまの日本のように平和で安全、おおかた衣食住に困らない状況にあるなら
「幸福と不幸」は私たちが思うほど大きなひらきがあるわけじゃないけれど…」
と書いたけれど、そうでなかったら(衣食住に困るほど貧困だったら)どうだろう?
「『幸福と不幸』は私たちが思うほど大きなひらきがあるわけじゃない」とは
決していえない気がする。
(ユニセフの募金をよびかけるアフリカなどの実態)
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「発展途上国」といわれている国々の現実。
日本人には想像をぜっする「貧困」があふれる世界がある。
そんな世界の姿は、通りいっぺんの情報だけではわからない。
感じられない。
そのことをの子どもたちと長いあいだ触れあう石井光太さんの本、二冊を読んで
痛感した。
『それでも生きる-国際協力リアル教室』
『本当の貧困の話をしよう』
という。
「貧困」というと、ふつうは経済的な「貧困」をいう。
「生活が貧しくても心、心は豊か」というけれど、それは
本人個人の資質もさることながら、その貧しさが許容範囲のうちということを、
二冊はとことん感じさせた。
(『それでも生きる』は「餓死現場での生き方」「児童労働の裏側」「無教養が生むもの奪うもの」
「児童婚という性生活」「ストリートチルドレンの下剋上」「子供兵が見ている世界」で構成。
「あとがき」に「世界の貧困問題の多くは…ワンフレーズの簡単な言葉だけで表現」され、
「それを聞けばわかった気にはなるかもしれませんが、飢えた人々がどんな思いで生きていて、
学校へ行けない子供たちが何をしているのかは実際のところ何も知らないまま」
「私はこの本を通して、みなさんが「餓死現場で生きる」ということがどういうことかを知って
いただけたらと思っています」とあった)
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二冊から共通して、とても強く感じさせられたことを、三つだけ述べます。
①「善悪を決めつけてはならない」
②「無教養」
③欧州列強の遺産「最悪」
(きょうは①)
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「独善」ということ。
ほんの少しでも役にたちたい、支援の手伝いになればと、
さまざまなNGOやボランティア団体が「貧困」の現場にはいっているけれど、
著者は(国際的活動に限らず)支援に存在する客観的な「する側」「される側」の
圧倒的ともいえる力の差をおさえておく必要性を強調する。
「独善」におちいりやすい危険性をなんども指摘される。
「する側」はもちろん「よいこと」だと思って行う。
けれども、相手にとっては必ずしも「よいこと」として喜ばれないこともある。
(「される側」は、「する側」の善意がわかる、感じるからこそ断りにくくなってしまう)
想像をぜっするほどの「貧困」、あまりの「残酷」をまえにしては、
「常識的」な支援はつうじないことがあるということを強く感じた。
(なんらかの支援をいっしょうけんめいしても、たいした成果をあげず、「自己満足」
《私は個人の人生には必要、だいじなことだと信じているが》に終わってしまうこともある。
そのことがわかっていても、「焼け石に水」だと悲観していてもめげずに取りくむNGOや
ボランティアの人々にはただただ頭がさがる。
「たいした成果」があがらなかったといっても、短い時間ではダメでも、
長い時間の経過のあと、成果があらわれるかもしれない)
こういうことが述べられていた。
【引用】「〈強要される性行為〉
児童労働、あるいは児童売春はなくしていくように努めていくべきです。
けれど、それをせざるを得ない人々もいる…
頭ごなしにすべてを否定するのではなく、彼らの立ち位置や感情、それに努力といったものを認める
視点を持つことも大切」
ここを読んで私は強く思った。
人は、あまりに悲惨で過酷な生活の現実、実態にあるとき、それでも死を選ばず
生きていくのなら(子どもなら「児童買春」でも「子供兵」でも)何でもしなければ
ならなくなる。
そういうときは一種の「極限」状態。
して「善いこと」「悪いこと」という道徳・倫理などの価値判断は無意味に
なりやすい、成りたちにくいことを。