カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.5.29 人生と「物語」

        カメキチの目

 

 

ずっと前に『人はなぜ物語を求めるのか』 千野帽子 という本を読み、「物語」

(ストーリー)という言葉がしこりのように気になっていた。

 

 これ限りの、1回かぎりの自分の人生。

 私の「人生物語」という晴れ舞台の主役は、

この自分いがいはあり得ない。

だから「人生舞台」は人の数ほど設けられ、「主役」は人の数ほどいる。

 

この本に出あう前、50代半ばに死んだかもしれない突然の事故に遭ったとき、

むさぼり読んだ仏教の本に「人生という舞台では誰もが主人公である」とあった。

決して、通行人AやBではない。

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そのときから、自分の周り、つまり「環境」を舞台になぞらえ、

「生きる」ということは「物語」(未完ではあるけれど)を創造していることだと

考えるようになった。

 

 

 

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 小説やテレビドラマの作りは、読者や視聴者を

惹きつけるため、意外性などドキドキさせる見せ場や

緊張シーンをはさみ込み、物語の筋を展開させる。

 そういう娯楽要素を入れながらも最終的には(はたから

《つまり第三者的に》みると)納得を与えるように作られる。 

 

 ところが人生の現実は、小説やドラマのように

つじつまが合うよう、合理的になるようには進まない

納得できないことがいっぱい起きる。

 

 しかし、 

 そうであっても、「人は物語をもとめる」。

 現実(すなわち客観)は不可解であっても、

自分が主役の人生の物語にあっては、演者(私)

小さなエピソードを含めてすべてを(主観的には)

わかっておきたい、納得していたい 。

そうでなければ心が安定しない。落ち着かない。休まらない。

 

水戸黄門的なハッピーエンドとは限らず、ときには宿題のように読者・視聴者

問いかけを残すものもある

たとえ、やり切れないような悲しい結末であっても「不合理なのが人生よ」

納得させる(人生自体は不合理でも物語の筋としては通っている、つまり小説など

の構成、出来ぐあいは合理的といえる)。  

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 千野さんは、私の人生に物語を求める、一貫性を

求める、何かを意義づけたり、何かを読みとるのは

たいせつな態度だとしても、そのことにこだわり(執着)

振り回されたりしてはならないと述べられる。

本はさまざまな角度から、おもしろく話を進められるのですが、最後の方で、

私には印象的な文章があった。それだけ書きます。

 

【引用】  

崖から手を放す

心理学者ウィリアム・ジェームズは〈がんばりを放棄した結果、心が刷新される〉

という心理学的コメントをしています。

〈引きつった私的な小我〉の〈がんばり〉が、必要以上に高い〈崖〉を

作り出していた。〈がんばり〉とは、従来のストーリーメイキングへの執着

エス親鸞の言葉を読むと「自分の過去のストーリーメイキングを捨てないと、

つぎが開けないんよだなあ」と思うのです。

 

なんであれひとつのストーリーメイキングを正しいとして執着したとたん、

足もとに〈崖(クリフ)〉があらわれる。

怖いけど、しがみつかずに手を放す選択肢はいつでもあります。…

神仏だって、執着してしまえば神でも仏でもなく、荷札に「神」「仏」と書いて

貼った〈小我〉の投影にすぎません。

 

(注:字はこっちでしました)

 

 要は、「ままならないのが人生よ」というのを

額面どおり、すなおに受けとりなさい、ということ。

そうしないと次の一歩が踏みだせない。

 

コロナ禍は、私たちの生き方について大きな課題を与えた。

 

 

 

 

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                           ちりとてちん

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