カメキチの目
ずっと前に『人はなぜ物語を求めるのか』 千野帽子 という本を読み、「物語」
(ストーリー)という言葉がしこりのように気になっていた。
これ限りの、1回かぎりの自分の人生。
私の「人生物語」という晴れ舞台の主役は、
この自分いがいはあり得ない。
だから「人生舞台」は人の数ほど設けられ、「主役」は人の数ほどいる。
この本に出あう前、50代半ばに死んだかもしれない突然の事故に遭ったとき、
むさぼり読んだ仏教の本に「人生という舞台では誰もが主人公である」とあった。
決して、通行人AやBではない。
そのときから、自分の周り、つまり「環境」を舞台になぞらえ、
「生きる」ということは「物語」(未完ではあるけれど)を創造していることだと
考えるようになった。
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小説やテレビドラマの作りは、読者や視聴者を
惹きつけるため、意外性などドキドキさせる見せ場や
緊張シーンをはさみ込み、物語の筋を展開させる。
そういう娯楽要素を入れながらも最終的には(はたから
《つまり第三者的に》みると)納得を与えるように作られる。
ところが人生の現実は、小説やドラマのように
つじつまが合うよう、合理的になるようには進まない
納得できないことがいっぱい起きる。
しかし、
そうであっても、「人は物語をもとめる」。
現実(すなわち客観)は不可解であっても、
自分が主役の人生の物語にあっては、演者(私)は
小さなエピソードを含めてすべてを(主観的には)
わかっておきたい、納得していたい 。
そうでなければ心が安定しない。落ち着かない。休まらない。
水戸黄門的なハッピーエンドとは限らず、ときには宿題のように読者・視聴者に
問いかけを残すものもある。
たとえ、やり切れないような悲しい結末であっても「不合理なのが人生よ」と
納得させる(人生自体は不合理でも物語の筋としては通っている、つまり小説など
の構成、出来ぐあいは合理的といえる)。
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千野さんは、私の人生に物語を求める、一貫性を
求める、何かを意義づけたり、何かを読みとるのは
たいせつな態度だとしても、そのことにこだわり(執着)
振り回されたりしてはならないと述べられる。
本はさまざまな角度から、おもしろく話を進められるのですが、最後の方で、
私には印象的な文章があった。それだけ書きます。
【引用】
[崖から手を放す]
心理学者ウィリアム・ジェームズは〈がんばりを放棄した結果、心が刷新される〉
という心理学的コメントをしています。
〈引きつった私的な小我〉の〈がんばり〉が、必要以上に高い〈崖〉を
作り出していた。〈がんばり〉とは、従来のストーリーメイキングへの執着…
イエスや親鸞の言葉を読むと「自分の過去のストーリーメイキングを捨てないと、
つぎが開けないんよだなあ」と思うのです。
なんであれひとつのストーリーメイキングを正しいとして執着したとたん、
足もとに〈崖(クリフ)〉があらわれる。
怖いけど、しがみつかずに手を放す選択肢はいつでもあります。…
神仏だって、執着してしまえば神でも仏でもなく、荷札に「神」「仏」と書いて
貼った〈小我〉の投影にすぎません。
(注:赤字はこっちでしました)
要は、「ままならないのが人生よ」というのを
額面どおり、すなおに受けとりなさい、ということ。
そうしないと次の一歩が踏みだせない。
コロナ禍は、私たちの生き方について大きな課題を与えた。