3回目の最後になって、やっと「坐禅」です。
著者は初めに禅の理屈をていねいに述べ、読者がしっかり納得したところで、
最後に実践としての「坐禅」という修行の話にもっていき閉じようとされた
のではないかと思う。
(「自分」という存在が「坐禅」を通じて、頭だけの理解に終わることなく、
身体で感じられるのだろうと)
■④坐禅
初めの引用を。
(引用の仕方は以前に戻ります)
【引用】
悟りとは走り続ける姿
その行為、その修行が続いていることを、「悟り」と称するのだ。
ゴールに飛び込むことが「悟り」ではない。…
ここが肝心なところである。道元禅師が問題にするのは、
常に人の生き方全体である。
その生き方がその人間の何たるかをきめるのだ。
禅師の言う「参禅」は、…「真実在」的境地(=いわゆる「悟り」)を狙う
禅定の習得とは無縁で、あくまで坐禅という具体的な行為を指す。…
(注:赤字、太字はこちらでしました)
「参禅」というと、一時大きなブームになったときも
あったし、いまでもそれなりに人気を保っている。
心を静かに見つめたり、「空即是色 色即是空」の
体感自体を求めるなど、自分自身の魂を成長させる
ためだけではなく、集中力の涵養などを目的に企業の
研修等にも利用されてきた。
坐禅には若いときから惹かれていたが、私の場合はただの興味本位だけであった。
著者のような切実さ、真摯な思いはまったくなかった。
(永平寺のある福井に住んでいたこともあったが、その寺が曹洞宗の大本山である
ことも「坐禅の聖地」的存在であることも知らなかった)
それでも「いつかは本格的な坐禅を」と思っていたが、障害者になってからは
旅以外の行動は億劫、面倒くさくなり、「坐禅の心」だけでよい、本だけでよいと
本格的な実践はあきらめた。
しかし「ここが肝心なところである。道元禅師が…
常に人の生き方全体である」。
長く坐禅(ヨガや瞑想も)を続けると何かの境地には達すると思う。
(その境地が「妄想」か「悟り」かは、けっきょくそのときの自分を「信じる」か
「信じない」の問題かもしれない)
道元禅師の言葉「人の生き方全体」は、その境地に到達するか否か、
またそれを信ずるか否かの問題を超えている。
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■その他
本の終わりのほうで、とても胸に響いたところがありました。
三つあり、一つは〈食の倫理〉、一つは〈一日に一度「ただ坐る」〉、おしまいの
一つ〈自分に真に必要なものは何なのか〉です。
【引用】
〈食の倫理〉
食べる根拠はどこにあるのか
(「おいしい」「まずい」)この判断は所詮錯覚である。
今修行する我々の食では、この錯覚を超克しなければならない。
〈一日に一度「ただ座る」〉
しかし、本格的な坐禅にまで至らなくても、
一日のうち決まった時間をただ坐ることに割く。
仕事でも遊びでも運動でもない、何かの「ためになる」一切のことをしない時間。
…無常の自己、限界…。我々はそれを見、味わうべきなのだ。
〈自分に真に必要なものは何なのか〉
(資本主義・市場経済は無用なものを必要とする不合理なシステムであり、
この経済は)基本的に限界を受け容れず、…
我々は限界を条件とする存在だから…
限界を折り込んだとするなら、その(資本主義という)システムは
物の保存と分配、自然からの借用と返還に軸を移動させて経済を回転させるだろう
それは欲望より必要により近いところで運動することになる。
経済の価値は「豊かであること」で計られるのではなく、
「足りていること」で計られる。
(注:( )の追加部分、赤字太字はこちらでしました)
その教えをできるだけ守って生きようとすれば、
「資本主義」という社会システム、世の中の在り様と
どうしても衝突、食い違うところが出てくる。
(他の宗教だって同じ)
経済の価値は「豊かであること」で計られる
のではなく、「足りていること」で計られる。
〈自分に真に必要なものは何なのか〉
それさえ足りていればヨシとしなければならない
このことは年寄りになってから強く思う。
(若いときは「あれが欲しい(持ちたい)」「これも欲しい(所有したい)」と
よく思った。「欲望」について考えてみるまでもなく、それに引きずられていた)
しかし、飽くことなき膨らむ欲望は人間の本質。それが備わっているからこそ
脳が刺激され、科学が生まれ、技術になって人々の役に立った。さまざなものが
発明・発見され、文明が進んだ。
しかし、私たちは頭の先に人参ぶらさげた馬になり、人参もとめてどこまでも
走り続けているようだ(「次世代」人参の研究・開発は終わらない。人参より
もっと欲しいもの、人参に代わるものがそのうち出てくる)
〈オマケ〉
テレビの人生番組で、フレイル(介護が必要なほどではないが、老いて身体が
だんだん弱ってきて「虚弱」状態)にある都会の老人たちに少しでも元気になって
ほしいとボランティア活動する女性の言っていたことを紹介していた。
具体的な活動というのは、気楽にやって来て食べる場所(食堂みたいな場)を
つくり、食べてもらうことである。
「寂しいとは言えなくとも、腹へったーとは言えるでしょう」と彼女は言う
(男性は「男の沽券…」とまでは言わなくても、「一匹狼」みたいなのにこだわる
ところがある気がするので、男である私はこの女性の言われることがわかる)。
閉じこもり(引きこもり)がちになってますますフレイルになることを防ぐため
身体に働きかける(食の提供)ボランティア活動のすばらしさを強く感じた。