『イカの哲学』続き(2回目)
著者中沢さんは、波多野さんはイカを見つめているうちに(無意識ながら)自分の
カミカゼ特攻隊員としての体験はイカの生存そっくりだと考えていたのでは、
そして波多野さんが『イカの哲学』で述べたのは、薄っぺらなヒューマニズム
ではなく生命の深みから問われた平和ではないかと言う。
(グーグル画像より)
波多野さんは死を前にして、死ぬことはお国や家族のためとはいえ、
自分の遺伝子を残せない(つまり子を残せない、生命を続けられない)という
生きものとしての本能的な欲望を絶たなければならないことに気づき、
生と死の狭間で苦悶した。
その苦悶を受け、中沢さんはバタイユというフランスの哲学者の生命論を引いて
生きること自体の前提でもある「平和」というものを、「戦争」との対比で
深く考える。
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【引用】
「〈バタイユの生命論〉
・生物には自分を非連続的(独立した)な個体として維持しようとする面ばかり
ではなく…非連続であることを自分から壊して、連続性の中に融け込んでいこう
とする強力な傾向が隠されている…
(バタイユは)それを「エロテシィズム」という概念でとらえようとした。…
・精子と卵子は、基本的な状態では非連続の存在であるが、それらが一つに
結びつくこと(受精)によって、ある連続性が二つのあいだに確立される…
・「自己」の内部に自分とは違う異物が侵入してくると、生物はすぐさま
免疫抗体反応を発動して、異物を自分の外に排除しようと行動をおこす。
つまり、生命には自分というものを認識する知性能力が、
どんな単純なものにも宿っている。…」
(注:黒字の〈〉()・はこっちでしました)
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生物は、自分自身の体を守るということでは異物は拒否・排除しようとする
(免疫システム)のに、種の存続では異物を迎えいれ、子どもをつくること(生殖)
により自分(遺伝子やDNA)を残そう(伝えよう)とする。
バタイユは、この矛盾を「エロティシズム」という概念でとらえようとした。
異物を拒否・排除しようとするのに、迎えいれようともする。
「連続性の中に融け込んでいこうとする強力な傾向」があると言う。
(「社会」「人間集団」にもいえると思う。日本が、まだ喜んで迎えいれるところまではいかなくても
外国の人々と共存する国になればいい)
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中沢さんはバタイユの生命論でいう「エロティシズム」を、(突きつめて言えば)
「生命の輝き」と表現すべきもののようにとらえていると思った。
人間だけに独自な「性愛」、「宗教」、「芸術」、「戦争」にエロティシズムが
現れているとして、古代(原型をとどめる原始的な部族の)戦争について詳しく述べる。
【引用】
「〈戦争のエロティシズム〉
開戦が近づくと、戦士となる青年男子は、まるでお祭りでもあるかのように
美しく着飾り、打ちそろって戦士の舞踏を舞う。…
戦士たちは、…勇壮な太鼓や低音の唸りを出し続ける笛などで活気づけられながら
生と死が隣り合う生命と知性のエロティシズム態に、自分の心を近づけていく…」
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「エロティシズム」
芸術的なセンスがない私には「エロティシズム」というものが表層的、紋切り型に
しか受けとめられていなかった。
芸術家のモチーフには自然の風物だけでなく、愛とか性、裸体などもあるけれど、
何であれ、魂を揺さぶってやまない「生命の輝き」(具体的な表現はたとえ「死」で
あろうとも)なのだろう。
「生命の輝き」を感じる、感じられる人たちが芸術家、アーティストなのだろう
(「芸術は爆発だ!」の「爆発」とはそういうものなのだろうか)
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「生命の深みから問われた平和」
波多野さんがイカを見つめているうちに神からの啓示のように感じた「覚り」は
まさしくイカの「エロティシズム」だったのだ。
ピチピチはねるイカに「生命の輝き」を感じたのだ。
薄っぺらなヒューマニズムにもとづくものでない、生命の深みから問われた平和。