よんばばさんの『あとは野となれ山となれ』という愛読ブログがあり、
10月14日の記事に強く刺激された。
その一部にこうあった。
「以前「アファンタジア」という脳内でイメージを視覚化することが
できない症状を持つ人のことを書いたが、きっとこの世には、
人の痛みを想像するという機能を持たない種類の人が一定数存在する
のだろうと思う」
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で、コメントを書いた。
村田沙耶香さんの『コンビニ人間』を読んだ時にも衝撃を受けたのですが、
完全に「全き」人の方が珍しいくらいで、脳のごく一部が欠けている人は
案外多いのかも知れないと近頃は思います。
政治家や経済界の偉いさんやホリエモン・ひろゆき・三浦瑠璃などの言論人など
見ていると、ある程度の知性ある人であり、普通の想像力があったらとても
言えないと思うことを平気で言う所を見ると、本当に悪気も何もなく、
ただ弱い立場や自分と関係のない人たちのことが全く想像できないの
かも知れないと思い至りました。
(他人への「想像力」がなくても、弱くても、「知性」は持てるのでしょう。
もう一つの「創造力」には大いに知性が関与していそうで、ホリエモン…はそれで大いに
「成功」したのだろうか。
「悪知恵」という言葉もあるし、オレオレ詐欺の手口を数々更新したり、霊感商法を考えた人も
創造性ゆたかな大いなる知性の持ち主なのだろうか)
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だから偉い人に「分かって!」と言ってもどだい無理なんじゃないか。
普通の感覚を持っている人を政治家にしない限り、彼らは「真剣に」自分及び
仲間のための政治しかしないのではないかと(-_-;)」
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また、書いた。
「『ある程度の知性ある人であり、普通の想像力があったら…』に深く何度も
うなずきました。ほんとうにそうですよね。
おっしゃるように、これは「知性」とかの問題ではなく「想像(力)」の問題
だと確信します。
「理性」についての本は、今日のように人間が進化したのは理性のおかげ
ということを、さまざまな科学者(ノーベル賞を受賞した人も大勢)の説を
紹介されるのですが、最後の「あとがき」で著者が強調されたのは
「理性」の使い道というか、目的、存在価値のようなもののたいせつさで、
それは「私たちはどうしたいのか」「どのようになりたいのか」という想像力を
駆使することの、もっともっとたいせつだということでした」
(その本は『理性の進化』というのですが、よくいう「人間の理性」というものは、
人間の集団《社会》のなかで他人への「共感」、「思いやり」をはぐくみ、それを通じて
進化をとげていくものだとありました。
「共感」、「思いやり」とは相手、他人の心、気もちへの「想像」そのもの)
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また、よんばばさんの返信。
「私たちは、誰でも「想像力」があるものだと考えがちですが、
そもそもその「想像力」とか「自分ではない他の人の気持ちを思いやる」
とかいう能力そのものを持っていない、そういう脳の機能を持たない人が
一定数いるんじゃないか、と私は思っているのです。
責めることもできないんじゃないかと。
多くの政治屋たちが「けしからん」と私たちは腹を立てるのですが、
そうした人たちのうちのかなりは、本当に「自分のため」になることしか
考えられないんじゃないかと・・・。
「『きっとこの世には、人の痛みを想像するという機能を持たない種類の人が
一定数存在するのだろうと思う』 まったくそう思います。
最近読んだ本はまったく政治には関係なさそうな「理性の進化」について
述べられたものだったのですが、「想像」とか「想像する力」のたいせつさが
いわれていました。
人間にとって想像するということがどんなにだいじなものかということを
痛感しました」
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それへのよんばばさんからの返信。
「最近は研究が進んで、学習障害や自閉症も細分化され、さまざまな障碍を
持つ人の存在が分かってきました。