5.3に「在るものを愛すること」という記事を書いた。
前田英樹さんが書かれた本の感想で、道徳や倫理というものについてのもの。
その本で初めて考えたこともあり、またこの人の本を読んでみたくなった。
見つけたのは 『独学の精神』 という。
この中の一つ、「葦のように考えるとは、どうすることか」という項目で、
パスカルに触れた部分がとても強く心に響いたのでそのことだけを書きます。
【引用】
「人間は、葦のように弱いけれど、葦であることを超えて考えることができる、
そんなことを彼(パスカル)は言っているのではない。
我が身が葦のように弱いものなら、そのまま葦のように考え続けよ、と言っているのである。
これなら、「道徳の原理」になることができる。→(「傲慢」への戒め)
…
人間が我が身を超えて考えることは、実はそれほど難しくない。
身の程知らずの理屈屋が、こんなに溢れかえった世の中を見ると、それは明らかである。
近代科学は、厳密に計算された実験の上に成り立っているから、身の程知らずとは言えない。
しかし、その成果が積み上げられて、人が月にまであっさり行けたりすると、
科学者はなんだか宇宙を征服した気になる。
そういう科学者を仲間内に持つ私たち人類も、なんだか自分が偉い気になってくる。
こういう自惚れには、科学的なものは何もない。大昔からの、人間の心の弱点があるばかりだ。
…
(パスカルの言葉)→
「人間の好奇心は驚嘆に変わり、もうそれらの不思議を僭越なる心をもって探求しようとするよりも、
黙って眺めようという気持ちになるだろう」
これを言うパスカルは、科学者の眼を少しも捨てていない」
(注:「」、→(黒字)、赤字はこちらでしました)
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パスカルの「人間は考える葦である」という言葉は有名だからよく聞いた。
が、単純に「人間=考える葦」で終わり、それ以上のことを考えたことはない。
著者がいう「我が身が葦のように弱いものなら、そのまま葦のように考え続けよ」
と、努力をわが身に課すことような道徳的なことは考えたこともなかった。
葦⇒弱いもの 人間⇒弱いもの ゆえに 人間=考える葦
としか考えなかった。
「我が身が… そのまま葦のように考え続けよ」を知ったいまは、
「考え続け」る努力はしないでも、少なくとも努力をしない自分を恥じる意識、
努力する人を敬う気もちは持っていたい。
「月にまであっさり行けたりすると、…宇宙を征服した気になる」
「科学者を仲間内に持つ私たち人類も…自分が偉い気になってくる」
月や宇宙に行く科学者も、この私も、「生きもの」「いのち」の本質において
葦と何ら変わるところはない。
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「人間の好奇心は驚嘆に変わり、もうそれらの不思議を僭越なる心をもって
探求しようとするよりも、黙って眺めようという気持ちになるだろう」
何度も書くように、好奇心、探求心という汲めども尽きない泉みたいなもので、
それは人間の本質のようなものだろう。
それがあってこそのいまの人類の繁栄に違いないけれども、
「黙って眺めようという気持ちにな」らず、
自然のどんなに不思議、不可解なことでも人間の力で克服しようとする限り、
いつか必ず人間自身の存在の不可思議に手をつけざるを得ないと思う。
(パスカルは17世紀の人だが、17も21も人類の歴史からは鼻くそ目くその違いでしかない)