最後の③は「遊び」、「スポーツ」。
この本では、それらの原型も狩猟採集時代に遡れるという。
いま私たちが「遊び」、「スポーツ」といっているものの起源も狩猟採集生活に
あるとのこと。
ニュースで「eスポーツ」というコンピュータゲームを知って
(「グーグル画像」より)
「エッ、これがポーツ?」と驚いたけれど、
スポーツがいつまでも「狩猟採集時代」の「名残り」みたいなものである
必要はないのだった。
身体能力(技を含め)に決定的な影響を受けなくてもいい。
(とはいっても、ゲーム全体を見通す冷静な判断力、瞬時に理解する感覚知的な能力とともに、
ボタンを操作する反射能力、そのための指先能力《?》も要るのだろう)
先の東京オリンピックで初めて正式種目として登場した「スケートボード」。
(「グーグル画像」より)
「エッ、これもスポーツ?」遊びと思っていてこれも驚いた。
これから先、人類が続いている間はスポーツも遊びもなくならないけれど、
二つの境はますますわからなくなるのだろう。
(いやそもそも、「スポーツ」「遊び」と二分法するのがおかしい気がしてくる。
さっきの「eスポーツ」だっておもしろいゲーム、遊びで十分なのだろう)
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【引用】
「〈ホモ・ルーデンス―遊びの役目〉
(オランダの歴史家ホイジンガの説を引用して著者は述べる)遊びそのものは「無為」、
すなわち直接は役に立たないものだが、ヒトはそれに意味や価値を見出す…
(遊びもスポーツも同じ「play」。といっても動物の子どもは遊びを通して食べものを獲得する方法、
つまり生きることを学ぶ)
…
〈子どもの遊びの特徴〉
ひとつめは、身体を動かす遊び…
2つめ…ごっこ遊び(「模倣」)…
3つめは、狩猟採集に多少なりとも関係する遊び…
4つめ…遊びに性差があること…
(「ダルマさんが転んだ」や「隠れんぼ」のような遊び、何かの的《マト》に命中させるような遊びは
世界各地に見られる。それらの遊びはみんな「狩猟採集に多少なりとも関係する遊び」)
…
〈スポーツの本質―競い合い〉
スポーツと狩猟の関係は、英語のgameということばにも表れている。
Gameは、もとは「狩猟での獲物」を意味していた。
その後それは、「試合」、「競技」や「勝負」、そして「遊び」の意味をもつようになった。
このように、狩猟と遊びとスポーツという三者は、歴史的に緊密につながっている。
…
なぜスポーツは子どもの生活の重要な部分を占めるのだろうか?…
遊びと同様、それがおとなになるためのトレーニングだからだ。
…
スポーツは、それを実現する制度化されたひとつの方法なのである。
スポーツは、狩猟採集生活をしなくなった人々が、余暇の時間を使ってそれと似たことをするための
ひとつの仕組みなのだろう。
…
(スポーツは観て参加することも含む)相手の身に自分をおけるというのは、
ほかの動物にはみられない、ヒトの特筆すべき特徴である。スポーツ観戦はその典型的な例だ。…
ほとんど意識していないが、私たちは、狩りで用いる身体能力やスキルに価値をおき、
それらに秀でた者に感嘆するような性質を受け継いでいる。
(注:黒字の「」〈〉()はこちらでつけ加えたりしたものです)
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引用はいろいろなところで聞いて読んで知っていたこともあるし、知らなかった
(というか考えたこともない)こともあるけれど、ウン、ウン…うなずくことばかり
だった。
とくに最後の、自分自身が直接プレイしなくてもゲームに参加しなくても「観る」
「楽しむ」という間接的なしかたで(客として)そのスポーツに関わっている
だけで興奮、感激するということには、首が痛くなるほどうなずいた。
「相手の身に自分をおけるというのは、…ヒトの特筆すべき特徴…
ほとんど意識していないが、私たちは、狩りで用いる身体能力やスキルに
価値をおき、それらに秀でた者に感嘆するような性質を受け継いでいる」
「相手の身に自分をおけるという」ことは、思えばなにもスポーツだけじゃなく
「ほとんど意識していないが」社会で生きることそのもの。
(しかし、「相手の身に自分をおけるという」ことはむずかしい!)