いまも手が震えてくるような気もちです。
土偶。
(グーグル画像より)
著者、竹倉さんは上の写真のような土偶(これは津軽半島の亀ヶ岡遺跡の「遮光器土偶」。
「シャコちゃん」といって当地のユルキャラのように可愛がられています)について何なのか?
という大問題(いまも解明されてない)をたんねんな独自の調査と思考と想像力で
解明され、その結果をこの本で発表された。
(竹倉さんは学者ですが人類学者《考古学者、歴史学者ではありません》。
本で公表するにあたっては、権威ある考古学者のお墨付きがあるといいので、あちこちかけずり回り、
頼みまわったけれどもみんな断られた。
《本の終わりで、そこまで権威というオリに閉じこもった「縦割り化とタコツボ化」した
「アカデミズム」の現状を痛烈に批判されていたのはいうまでもありません》
しかし、発表するにあたり、いい意味で学問は正確、精確でなくてはならないので、この「新説」は
慎重かつ謙虚な態度で「仮説」といわれます。
《しかし、著者ものべられているように、私もこの「仮説」が近いうちに「定説」となり、
教科書に載るようになってほしいです)
本は 『土偶を読む-130年間解かれなかった縄文神話の謎』 竹倉史人・著
といいます。
(20年以上も前、青森の三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡、秋田の大湯環状列石に旅したほど、縄文時代、
縄文人に惹かれる。4月に出たばかりの新刊です)
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この本が、土偶にちょっとでも惹かれるすべての人に読まれることを強く望む。
著者が強くいいたいこと、本の基調は、序章と最後の章に述べられていた。
【引用】
「序章
〈神話世界をめぐる人類学の冒険〉
神話を持たない民族は存在しない。…神話は単なる創作物ではなく、世界認知そのもの…。
人間として世界認知する限り、そこには必然的に神話が生まれる。
〈土偶研究の始まり〉
土偶もまた古代文書と同様、何らかの「情報」が書き込まれた媒体なのである。…
「土偶は何をかたどっているのか」というモチーフの問題。…
「土偶はどのように使用されたのか」という用途の問題。
土偶は人体をデフォルメしているのか…
現在の通説を大まかにまとめれば、「土偶は女性をかたどったもので、
自然の豊かな恵みを祈って作られた」ということができる。…
「野生の思考」を生きる人びとにとって、植物を適当に植えるということはあり得ない。
播種が行われるのは単なる畑ではなく、植物霊が集う聖地だからである。
一粒の小さな種が発芽し、伸長し、何倍もの種を実らせるのはまさに奇跡であって、
精霊(=生命力《アニマ》)の力と守護がなければ絶対に成就しない事業である。
それゆえ播種あたっては、植物の順調な活着と成長を精霊に祈願してさまざまな呪術的儀礼が行われる
(予祝儀礼)。発根・発芽すれば今度は苗が順調に育つための呪術的儀礼が必要となる。…
収量を上げるために自然界を制御しようとする心性は何千年経とうが変わらない。…
古代人は「精霊がいなければ植物は成長しない」と考える…
身近な「春のお祭り」や「秋のお祭り」ですら、そのほとんどが植物霊祭祀のイベントに由来するもの…
「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」
というのが私のシナリオである」
「第10章 土偶の解読を振り返って
土偶研究を始めてすぐに思ったことがある。
それは「縄文人の感性的世界の発露そのものである土偶を研究するのに、感性的アプローチを排除・
抑圧した方法論によって土偶の謎に迫れるわけがない!」ということである。…
「呪術」というと「精神的なもの」というイメージを抱きがちだが、原始社会における呪術とは、
第一に共同体の主たる生業の遂行にかかわるものであり、その意味においてはむしろ「実用的なもの」…
すぐれてプラグマティックな実践的行為の技法なのである。…
これまでの土偶の質的研究は縄文人の心性をいたずらに神秘化してみたり、土偶の造形を象徴主義的に
深読みし過ぎるなどして、実証的な考古研究との乖離を深めてしまった。
たしかに土偶は呪具であるが、それは土器や石器といった道具類と同様に、
まずは日々の生業とのかかわりの中で理解されるべき遺物であったといえるだろう。…
気づいていないだけで、われわれは縄文人が呪術的であるのと同じくらい呪術的存在である。…
神話的世界を生きている。…」
(注:〈〉「」、太字太字はこちらでしました)
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序章から第10章までのあいだの9章は、形の大きく異なる土偶9種類ごとに1章が
さかれ、その形(フォルム)のあらわしているものは何なのか?その根拠を中心に
製作されたであろう年代など、それまで明らかになっているさまざまな多くの
客観的資料を駆使しながら実証される。
以前、「呪い」の記事で、それが原始、古代だけの人間に特異なものではなく、
時代や場所をこえた普遍的なものだというようなことを述べた。
「気づいていないだけで、われわれは縄文人が呪術的であるのと同じくらい
呪術的存在である」
「魂」とか「心」は、縄文人も私たちも変わらない。
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科学技術が生まれ進んだので「霊」とか「精霊」といわれるものは科学技術の範囲
では明らかにされ、説明されるけれど、説明されても納得のいかないことが
人生の範囲(それが自分が生きているということ)にはある。
科学技術の範囲ではいろいろな物事のしくみ、原理はわかっても、生老病死、
人生はわからない。
自分に起き、なぜあの人には起きない? あの人に起き、なぜ自分には起きない?
自然災害や病気などに遭うこと、数字・確率という科学の説明は理解できても、
個人としては納得できない。
土偶はなにも縄文人にとってのものだけではなく、現代に生きる私たちにも
欠かせない。
だれも土偶のようなものをもっているのかもしれない。
「気づいていないだけで、われわれは縄文人が呪術的であるのと同じくらい
呪術的存在である」を痛感する。
(私も道ばたでお地蔵さんや祠をみたら合掌し黙礼する)