カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.12.29 丸い時間

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死。

(もうすぐ「めでたい」とされる新年なのに、いや新しい年の初めだからこそ

それを想いたいもの→《「メメント・モリ》)

 

人はみんな死ぬ。生まれ生きている限り、誰にも共通していることだから、

多くの人の関心をひく。

 

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死を知りたくて、闘病記、それをテーマにしたものなど、けっこう読んだ。

だが本で、映画・テレビなどのドラマ・ドキュメントで、いくら知り、思い、

感じ、考えようとも、しかたないことだが他人ごとで終わってしまう。

(わが身に迫っていたことではなかったので、理性的、感情を乱すこともなく

安心できた)

 

しかし、元気に働いていた14年前、定期健診で胃ガンが見つかり、青くなった。

しかし、ガンの摘出手術が予定されていた10日前に落下という突発の事故に遭い

救急に運ばれたので、不安・心配はどこかへ飛んでいた。

(事故による体調、障害の症状がとても不快で、その不快さがガンによる死への

不安を鈍らせ、やわらげた。続けて青くなっている余裕はなかった)

 

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『生と死をめぐる断想』 岸本葉子・著 

 

岸本さんはガンになったとき、もともと気になることは深く考える方らしく

生と死について書かれた本(闘病記類だけでなく宗教や思想、スピチュアルまで

含めさまざま)を読まれ、ご自分の感想や考えを「断想」として記された。

 

すべてがよかったけれど、いつものとおりいちばん心に響いたことだけを書きます

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最後のほうに「第3章 時間について考える」という項目があり、著者は言う。 

 

私たちはふつうに「時間」という場合、そのときの時間感覚、イメージによって

使っている。

けれども時間は、客観的・詳細にいえば、もっとも深いところに138億年前に

宇宙の誕生により始まる「宇宙の時間」があり、

次に46億年前の地球の誕生により始まる「地球の時間」があり、

次に40 億年前の原始生命の誕生で始まる「生命の時間」があり、

最後に10万年前のホモサピエンスの誕生によって始まる人類の時間」が

層を成して存在しているのではないか、と。

ホモサピエンスのなかに、数えきれないほどの先祖がいて、私が誕生し、

そして、いま現在の「私の時間」があり、私の生がある、と。

 

これらの時間はみんな「時間」なので、それぞれが直線状の川の「流れ」のように

イメージできる。

川のもっとも深いところが「宇宙の時間」で、…波立つ表面は「私の時間」だ。

 

次に、この時間の層を曲げ「輪にしてみる」と、著者は言う。

【引用】

上のことを輪にしてみる。

必ずしも突拍子もない想像ではない。川から転じて海をイメージしてみよう。

航行する船にとって海面はどこまでも平らに感じられる。

が、言うまでもなく地球は丸い。

それを丸いと感じないのは、地球があまりに大きいからだ

 

私たちの日常的な感覚からいえば、時間は直線状にまっ直ぐにどこまでも進む

矢印(というイメージだ。 

これに対して輪()は、まったく同じというわけではないのだけど、

元のところへ戻ってくる。つまり、循環しているイメージ。

(「らせん状」とか「渦」など、自然の形、現象は吸いこまれていきそうで、

永遠を想わせる

 

続けて著者は言う。

輪・丸・円には中心があると想定でき、そこでは時間が流れない。

永遠が存在するように考えられる、と。

【引用】

層のモデルに即して言えば、深層へ降りていく方向だ。…不動の中心。

そこでは時間が流れない。「流れる」ということが時間の性質であるならば、

そこには時間がない、と言える

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以上の考えは、著者の読んだ本(廣井良典・著)が基本になっているらしいが、

私は初めて知った。とてもおもしろく、なんどもうなずいた。

(「ネズミの時間・ゾウの時間」というのは聞いたことがある。同じ時間でも

流れる速さが違うというもので、これもすごくうなずいた。それは本川達雄という

生物学者さんの言うことだったが、廣井さんは社会学者だから「人間の時間」)

 

人によって、時間のとらえ方もさまざま…。

「ものは考えよう、思いよう…」とよくいうが、なるほど!

(「永遠」というものは存在するともしないとも言える。あってないようなもの

だから、人間は「永遠」に永遠に惹きつけられるのだろうか)。 

 

最後の【引用】です。

「(中心に)降りていく技法として開発されてきたのが(禅の)行…

この行に必ずしもよらなくとも、半ば偶発的に永遠にふれる瞬間が、

私たちにはあるのではなかろうか

(注:()はこっちでつけ加えました)

 

「悟り」というのは、たとえそれが幻想であってもスピチュアルなもので、

不動の中心」(永遠)のようなところへ到達した心境なのだろう。

 

著者は、悟りをめざして厳しい修行する禅僧でなくても、誰でも、日常のど真ん中

にでも、あるときふっと何でもない風景に、ものごとに、啓示を受けたみたいに

霊性を感じることがあると言う。

このことにも深くうなずいた。

 

 

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                         ちりとてちん

 

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