カメキチの目
子どものころの私は(自分で言うのはすごくオコガマシイことですが)すなおな人間だった。なんでも「ハイハイ!」(ハイは一回でよろしいと叱られるほど)だった。
しかし、成長とともに変わった。
「成長」のしかたがよくなかったのだろうか?
いつごろからか反抗的、世の中をハスにみるようになった。(それを「ヒネくれる」というなら)「ヒネクレ者」になった。
あくまで「社会」に対してです。
自分では、(どちらかというと)人にはやさしく振るまってきたつもり。その証拠に(いや、「証拠」とはいえないか)人にぞんざいな態度をとった(と思う)とき、ましてや相手にイヤな思いをさせたときはとても後悔し、自己嫌悪におちいる。
自分とはまったく関係ない話で、「どうでもいい」と言ってしまえば「どうでもいい」のかもしれないが、どうでもいい気もちにはなれない。
そのニュースを聞いて不快になった。
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■ 東京銀座の公立(「公立」です。「私立」ならわかる《「納得」しなくても》)小学校が、標準服(「制服」とは違うのだろうか)をイタリアの高級ブランド「アルマーニ」(私は初耳)社製の、最大80000円(8000円ではありません。服だけなら40000円くらいですむのだそうです)もするものに来年度から変更しようとするらしい。
その公立小学校は、学区にとらわれない「特殊」な学校らしいです。裏がえして言えば、80000円出すのに抵抗があれば入学しなければいいことでしょうが。
(イヤなら入学せんとすむことでしょうが、そんな問題ではないと《私は》思った)
そもそも標準服を導入する学校というは、私服では家庭ごとの暮らしの差が子どもたちに現れ、とくに貧乏な家の子どものイヤな思いを解消しようとのことらしい(個性の画一化という弊害もありますが)。ですから当然、どの家庭でも気軽に出せる値段のものが選ばれるのでしょう。
聞いたとき、こういうことを提案したオトナ、決めたオトナ、支持するオトナはどんな人で、どういう感覚で生活しているのかな?と、せんないことを思ってしまった。
まっ、オトナは「成長した」人間なので、自由謳歌の世の中ではどう振るまってもかまわないけれど、まだ「教科書どおり」を旨とする義務教育の段階でこれはないでしょ、と私は思った。
「せんせい、ぼく(わたし)のいえは、8まんえんはきびしいので…」という教え子に、先生は何とこたえるのだろう?
「道徳」という科目がある。道徳と「標準服」は矛盾しないのだろうか?
強制ではないので、その「標準服」を買うか買わないかは「自由」だそうだ。
だが、買ってもらえなかった子どもは、どんな思いで「標準服」を着た友だちをみるのだろう(逆に、「標準服」を着た友だちは…)。
ランドセルのように、1年生のときの服を6年生までもたすわけにはいかない。成長にしたがって着替えなくてはならぬ。
親の負担はたいへん! バカみたいです(いや「親バカ」はいいか)。
「自由」とか「個性」とか「選択」というけれど、それらの前提にあるべきはずの「平等」があるのでしょうか。
絶対的「平等」は「理想」と同じで、求めても求めてもぜったいに到達しないと私も思いますが、「こんなもん…」とあきらめたくはない。
少なくとも「機会の均等」という平等は現実的で、義務教育の原点であるべきはずなのに、あの「標準服」はそれに違反しているのではないでしょうか。