カメキチの目
私は自分を独善的な人間だと思っている。
そのことは夫婦喧嘩によくあらわれている。
恥ずかしいが夫婦喧嘩が多い(かった)。客観的に多いのかどうかはわからない
(ヨソさまのことは調べたことがない。ただ自分たちのそれが少なくないのは
確かな気がする)。
今は、それなりに「学習」し「反省」をくり返してきたので、前よりは減った。
減ったが、なくなったわけではけっしてない。
ケンカの原因の99.9%(例外は子育てをめぐってのときだけ)は
私が独善的、自己中心的であること。
それがいけないことだとはずっと前からわかって
いたけれど、そのことの罪ぶかさまでは、最近まで
気づかなかった。
私の場合、ここまで老いてやっと気づいたわけだ。
世は「新型コロナウィルス」でたいへんなことになっているが、「夫婦ケンカ」は
ちっぽけな、取るに足らない私事であるけれど、(比べられなくても)重大だ。
ケンカの原因が自分の非であれば反省しあらためる。それを相手が赦せば、
やり直しがきく。
新型コロナウィルス禍は人類の非がないとはいえない。
自然界からの人類への天罰ととらえて反省すればいい(と私は思う)。
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ウチの場合、100%私の「謝罪」で終わる。
結婚以来この方(覚えている限り)例外はない。
後が面倒だからとか、ともかく早く収束させた方が
ラクだとか、自分に非がない理由で謝ったことはない
ケンカが終わり、冷静になる。
人は冷静になって、初めて自分の非が明らかに見え
悪かったと反省できる。
自分中心に物事を考えたことに気づく。
新型コロナウィルス禍は、「人類中心」への他の生きものたちによる地球規模の
反乱、警告かもしれない。
ところで 、「自分中心」ということは、
個人としての自分を中心に据えることだから、
「主体的」ともいえるたいせつな態度だ。
しかし私の場合は、「主体的」でなく「独善的」、
言い換えれば「独りよがり」というのだ。
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「独善的」「独りよがり」はいけないと、それなりに
わかってはいたが、その罪の深さにまでは気づいて
いなかった。
反省が甘かった。浅かった。
「独善的」というのは始末がとても悪い。
「相手のことを思って…」と(錯覚にしろ)本気で思っているのである。
だから、謝りながらも言い訳する。
「相手」というのは、自分にとって都合のいいような(自分を中心にしての)
「相手」なのだということに気づいていない。
当の相手は、「私のことを思って…」してくれていることだからと、内心イヤでも
受けいれることがある。
それに耐えられるうちはよいが、我慢・鬱憤はそのうち破裂、パンクする。
私は気づくまで、「人間とはしょせん独善的、
独りよがりにしかなれない」などと、勝手な理屈を
こね、自分を肯定していた。
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思えばずいぶん泣かした。
涙を流す彼女を横目に涙が出ない自分を嫌悪した。
ケンカするたびに自分が嫌になった。
(涙を流せば汚い自分も少しは浄化されると思ったが、涙は出ない)
「女の人は泣けるからいいな」と、セクハラのような
ことも思った。
三行半をたたきつけられたら、そのときには冷静に
印を押さなければならないと本気で考えた。
が、そうならなくてよかった。
不自由な身体になったのは(けっしてそうではないとわかっていても、
自分にとっては)一種の「天罰」と受けとめるようにしている。
と、カッコいいこと言ったけれど、一緒になるときに、「幸せにします」と私も
人なみにカッコいいことを言ったが、不自由な身体になって「幸せ」の約束が
果たせなくなった。
が、「いったい幸せとはなんだろう?」「人生は思うにまかせない」とかなんとか
ごまかし、煙に巻いている(私と連れ添ったのがウンのツキと諦めてくれ)。