ちょっと前の朝日新聞「折々のことば」にあった。
【引用】
「家も親もからだも顔も才能も何一つ選ぶことができない私たち。
誰もがそんな「選べなかった自分」の大変さを背負って生きている。 (田中美津)
「なんで私の頭の上にだけ石が落ちて来たの?」という思い。誰もが自分では選べないことで苦しむ
という不条理。
が、なぜ私だけがと苦しむのは私だけではない。点を面へと拡(ひろ)げるべく起こした70年代の
女性解放運動は、今でいう「#MeToo運動」だったと鍼灸(しんきゅう)師は語る」
そういうこと、どれほど感じ、思い生きてきたことだろう。
上から「石が落ちてきた」のではなく、自分から(木より)落ちるという事故に遭い
意識がなくなった。
救急車の世話になったことなど翌朝しった(テレビドラマにある「ここはどこ?」)。
死んでいたかもしれないと医者がいったので、生きのこった気もちになり、今は
2度目の人生をおくっている気がする(3回目はないだろう)。
事故は仕事中で突然のことだったが、その仕事(作業)に注意がたりなかった。
そうではあっても仕事中だったので「労災事故」扱いとなった。
生きのこったことも、目が潰れなかったことも、労災もみんな「不幸中の幸い」といわねばならない。
選べなかったことは、生まれたときの「家」「親」「からだ」「顔」「才能」
だけではない。
「選べなかった自分」はその後も続く。
生きているあいだ続く。死ぬまで続く。
「選ぶ」「選択する」間もなく、突然、向こうからやってくるものごともある。
数すくない自分で「選んだ」ものごとでも(「神のはからい」のように自分を超越した
なにかの力で)「選ばされた」のかもしれない。
人生とはやっかいなもの。
やっかいだから、おもしろい。
そう思わなくては損。生きていて損だと、歳とってから感じられるようになった。