「偶然」ということによく触れるけれど、
頭のなかにと棲みついている感じがある。
で、「偶然」についてちょっと真面目に考えてみた。
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極言すれば、ある意味、生きていること、世界、すべてが「偶然」という気がする
人間で生まれたこと、生まれたのがある親のもと、ある時代、ある国、ある地域、
というような大きな、まったく受け身の「偶然」から、
自分の人生は自分のものだから自分で切りひらくという小さいけれど唯我独尊的な
少しは主体的な関与がみられる「偶然」まで。
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自分をふくめ、世界は「偶然」というしかたでしか存在しえない。
あれこれいろいろ、多様多彩な可能性のなかから、たまたま存在している
この「偶然」が自分にとっての現実、リアルというもの。
そういう意味で、言葉として「偶然」とはいっても、じつは「必然」。
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「偶然」ということは本来(科学的には)存在しない。
大海にただよう或るプランクトン、宇宙の星くずのような確率(可能性)でも、
在ることは在り、起きることは起こるべくして起きる。
滅多に起きない物事が「偶然」と呼ばれやすく、「奇跡」とか「不思議」、
「あり得ない」と驚かれ、珍しがられ(ときには「想定外」と不安がられるけれど)、
そのときは起こらなくても、いつかは起きる。
科学的なのだ。
(「必然」《目には見えない真理・法則・原理のような普遍》は「偶然」《たまたまあらわれた
目に見える具体・特殊》としてしか存在しないというようなことを、昔、聞いたことがあった)
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科学はそうであっても、人生は、
ゲーム、ギャンブル、賭け事のような確率が当てはまる勝負の遊びではなく
(決して大げさないい方でなく)「一世一代の大勝負」。
人が生きるということは、科学では説明できない。
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「偶然」を「運(ウン)」と言いかえてもいいかもしれない。
「あ~ぁ…」とため息ついても、
「ラッキー!」と飛びあがり喜んでも、
たまたま「運(ウン)」がよくなかった、よかったということにすぎない。
それは結果の話。
(「自分の誕生」、「わが人生」という事実も「結果」。
何事も「結果がすべて」という言葉を聞くと、胸糞が悪くなり吐きそうになる)
「努力はムダだった」ということは絶対ない。
「努力」は「結果」ではなく「過程」(プロセス)の話。
人生は過程なのだ。
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上に述べたことは自分という個人のことで、それを縦とするなら横は社会、
他人とのあいだも「偶然」はいえる。
すると(脳科学者茂木健一郎さんの本ではじめて知った)「偶有性」を連想した。
茂木さんは、現在の自分はたまたまこうだけれど、こうでなかったかもしれない、
ああであったかもしれないと、いろいろ想像してみることのたいせつさを
説かれていた。
「偶然」。「偶有性」。
いろいろ、さまざまな可能性のなかからの一つの現実。
ほかの有りえる(えた)現実。
その現実は想像してみるほかない。
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とはいっても、いまの「偶然」をだいじにしたい。
(これ以外には自分の人生はないのだから)つまり、
他人の人生を想像し、自分に起きる「偶然」をきちんと受けとめる。
そう考えていたら、覚悟がいることに気がついた。
「覚悟」といっても、私なんかにできるちょっとしたものだけど。