② バイオフィリア
(ネットによると「バイオフィリアとは、「バイオ = 生命・生き物」と「フィリア = 愛好・趣味」を
組み合わせた造語…生物・あるいは生命のシステムに対する愛情)
日本語で簡単にいえば、「生きもの好き」ということ。
多かれ少なかれ、人は誰でもバイオフィリア、「生きもの好き」だと思う。
(私もバイオフィリアだと思っているが、ペットに対するお姿の記事から、自分とは比較にならぬほど
生きものに愛情ぶかい読者がおられることをブログをするようになって知った)
本を読み、バイオフィリアは人類の理想だと思うようになった。
これからも長くホモ・サピエンスとしての人間が続いていくならば、
私たちはみんなバイオフィリアであることを自覚しなければならないと思う。
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【引用】「なぜ生き物に惹かれるのか―バイオフィリア
過去数百万年にわたって、獲得の動物を、そして採集植物を見続けてきたからだ。
それによって動物の動き、行動の習性を読むことが、そして植物の性質、自生地や育て方を知ることが
十分にできるようになった。…動植物に対する的確な観察眼と強い好奇心をもつことが、
そして場合によっては愛情を注ぐことさえもできるようになった。
…
動物や植物に心を仮定し(ほんとうに心をもっているかどうかはともかく)感情移入することは、
それらをうまく扱い育てる秘訣でもある」
気が遠くなる長い時間の狩猟採集生活のなかで、はじめは自分たち人間が生き、
生きのびるために、それらを獲物として食べるにすぎなかったけれど、そのうち
自分たちと同様に生きることに必死なほかの生きものたち、生物の健気な姿に
自分たちの姿を重ね、親しみを感じるようになった。
(人同士でもそうであるように)親しみは愛へと深まってゆく。
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現代を生きる私たちにバイオフィリアは、「生きもの大好き」と意識しなくても
気が遠くなる時間の積み重ねで、その性向が人間の本質のように遺伝子にまでなり
そのレベルで働いているのだろう。
そう確信したが、(前回の記事に書いたように《そこでは「好奇心」だった》バイオフィリアも
「関係する遺伝子がヒトでは多型…」「いくつものタイプがあって、個人差が大きい」のなら)
個人により、その遺伝子がないか(あっても)歪に働いている者がいるのだろう。
(「格差」はもとより)「戦争」のいまだに存在していることが
そのことを証明している。
(ウクライナの惨状を見て、「日本もいつあのようになるかわからない。非核三原則の見直しを…」
との短絡的な発想しか浮かばない者には死んでもなりたくない。
沖縄が日本国に返還されてから50年目という。
米軍基地のほとんどが集中という構図は何ら変わっていない。
50年の節目のいま、日本が戦争になったら、どこぞの国のそれに巻き込まれたら、
いちばんに攻撃されるに決まっている《軍事評論家でなくともわかる》。
沖縄の憂いは50年たっても変わっていない)