カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.1.31 ボケてきても安心な社会

ネットの買いものは、前なら支払いに「代引き」あったのに、

いつのまにかなくなっていた。

いまでは(「銀行振り込み」などもあるが)コンビニ設置の機械の指令にしたがい、

必要な情報を正確に(機械が読みとれるよう)入力しなければならない。

複雑で繊細な(と私は感じる)操作をくり返し、やっとのことで支払いできる。

うまくいくとホッとするが、疲れる。うまくいかずイラつき、店員さんを呼んだこともある。

それに懲り、いまは支払いに複雑な動作を要求する商品の購入は避けている)

 

買いものの支払いに限らず、よく似たことがますます増えていっている

現在のコンピュータ全盛のデジタル化社会。

 

目や耳がよく、頭もまわり、指の動作もなめらかな人には難なくできることでも、

目も耳もわるく、頭がにぶく、手も不器用な高齢者、障害者は生活しにくい、

生きていきにくい世の中になった。

(「新しいテクノロジーについていけない者は去れ」と、現代社会から言われているような気がする

「子供叱るな来た道じゃ、老人笑うな行く道じゃ」というのに)

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認知症フレンドリー社会』  徳田雄人・著という本を読んだ。

 

 

「はじめに」で著者が述べていることに、首が痛くなるほどなんどもなんども

深くうなずいた。

    ↓

認知症フレンドリー社会」という考え方は、いま、世界的に注目されるようになってきています

かつて医療やケアの一つのジャンルだと思われていた認知症というテーマが、実は、

社会全体の設計にかかわるものであり、社会に大きく影響を与えるものという認識が広がってきた

歳を重ねていくなかで、誰しも多かれ少なかれ、脳の機能が低下していきます。

そうしたときに、私たちをとりまく交通や通信手段、金融機関、スーパーやコンビニ、行政サービスは

はたして使いやすいものなのか

 

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社会を“アップデート”する

著者は、声を大にしてそれを主張する。

         ↓

そろそろ基盤となる社会全体のOSを“アップデート”する時期にきているのではないか

 

本は古いのでまだ「認知症500万人時代のもつ意味として

電車の車両に、100人の乗客がいるとすれば、およそ28人が高齢者で、そのうち4人は認知症の人

と書かれているが、最新のネット情報では、

65歳以上の認知症の人の数は約600万人(2020年現在)と推計され、2025年には約700万人

(高齢者の約5人に1人)が認知症になる

と予測されている。

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で、「社会を“アップデート”」とは具体的にはどういうことか?

その前に三つのことが述べられていた。 

        ↓

① 認知症対処社会認知症フレンドリー社会」という項目がある。

ここでは従来、あるいは現在の認知症対策は「認知症対処社会」のものであり、

認知症」、またはそれらしいものが主な原因で何らかの事故や事件が起き、

社会的な問題とされたとき(たとえば道に迷ったり、自動車運転事故を起こしたり)

いかに「対処」するかが課題となる。

その課題克服するための「対策」がなされる。

認知症対処社会とは、認知症の人の暮らしづらさや生活全体には注目せず、

目に見えやすい事件や事故を減らすことに、力が注がれます

 

② 「認知症」と呼ばれるものについて、本にはこうある。

誰もが認知症になる可能性

長寿の人の増加(病気や事故などの原因で亡くなる人の減少)

当事者と支援者(つまり支援される側とする側という現在の関係)は、

時間軸で連続的な関係になりうる(つまり「支援者」が未来には認知症になるかもしれない)

認知症は病気」言説の功罪

2000年代に入ってからは、加齢にともなう変化 ととらえられてきた事柄が、

病気であるという認識が広まってきた…

ぼけや痴呆と呼ばれていた時代には、認知症は、病気というよりは、加齢による変化

あるいは、パーソナリティーの変化ととらえられていました…

 

③ 「これからの社会を考えるヒント」という項目にはこうあった。 

互いが互いを支える

認知症であるかどうかにかかわらず…必要な部分のサポートさえあれば、

そのほかの人のために働けることが実際に証明されてきている…

認知症の人は介護や見守りの対象であり、基本的には社会的負荷であるというイメージは、

現在の制度や社会の仕組みの根幹にあり、根強い考え方です。

しかし、認知症の人が増えていき、認知症である人とそうでない人が明確に区分できないという事実を

考えると、「健常な人」が「健常でない人」を世話するという発想を捨てなくてはいけない時期に

来ているように思います。

生活のなかで、ある場面でサポートが必要ということと、その人が一方的に世話をされる対象であると

することはまったく異なります

 

         


で、「
社会を“アップデート”」とは?

それは、社会を「認知症フレンドリー社会」にしていくこと。

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最後に著者が述べていたことがとても強く印象にのこった。

             ↓

まざっていく社会

(現行の社会では)おおもとでは別々の世界に暮らすよう、社会制度や私たちの意識によって

形づくられてきている…

教育段階でわけておいて、大人になると社会へ出ましょう、障害がある人もない人もいっしょ

というのは、社会全体の設計として正しいのか

 

教育段階でわけておいて、大人になると障害がある人もない人もいっしょ

ほんとうにそう思う。

小さい子どものころから身のまわりにいろいろな人がいて、

いろいろな人々がいる状態が自然、あたり前という社会なら、

心の底から(というか感覚的に)偏見をもたない、差別の眼をもつことはないと思う

(どんなに否定しようとも、私の心は腐っている。偏見に満ちている。

「こう在るべき」「これが正しい」と頭では思い考えていても、子どものころから無意識のうちに

影響受けた感覚次元での価値観をまぬかれるのは難しい《少なくとも私はそれに「支配」され、

人を差別的な眼でみている》

 

 

 

 

 

                          

                          ちりとてちん

 

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