久坂部羊さんは、医者兼作家です。
(若いころは国際医療活動に参加、ニューギニアに行っておられたことも。
長い間、認知症高齢者に関わり、それをもとに医療、いのち、人生を考えさせる本も書かれている)
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「・問題行動は無意識の「復讐」
人間には最後の最後まで崩れにくい部分があって、その一つが「自分」へのこだわり
(「業」みたいなもの)
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・「初めまして、セツコと申します」
(認知症になった母が子どものことが分からず、トンチンカンなことを言っても)
「あんたは娘だ」といわれれば娘になり、「学校へ行ってきたな」といわれたら、「行ってきました」
と答える(のが)認知症の人への良い対応だと思います。
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・「あるがまま」を受け入れる
よく考えれば、「受け入れる」は問題の万能解決策です。
だから、(科学的な医療より呪術が一般的であっても)ニューギニアの人たちは顔が穏やか」
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■ 「問題行動は無意識の「復讐」」
なるほど!
認知症高齢者が家族や施設の介護者にトンチンカンなことを言ったり、「わがまま」(だと思われるよう)な態度・行動をとっているドラマなどでは、まるで小さな子が
「駄々をこねている」みたいに見えるけれど、これも大きく広い視点に立てば、
加齢とともに変りゆく人の自然な姿なのだと思った。
(「認知症」と診断されなくとも、老人になることは多かれ少なかれ、子どもに近づくこと。
だから、「子供叱るな来た道じゃ、老人笑うな行く道じゃ」といわれるのだろう)
でも認知症の高齢者だから、小さい子のように無垢というわけにはいかない。
長く生きていて、誰でも多かれ少なかれ、自分でも分からないくらい「手垢」
(「自分」へのこだわり)が染みついている。
(「なくて七癖」のクセのような)
認知症高齢者でない人たちはそれをコントロール、自己制御できても、
認知症高齢者たちはできず、また困難なので、ときどき、「無意識」のうちに
「問題行動」として爆発的にあらわす。
(それは「復讐」と呼ばれる面があるかもしれない。
「復讐」とまでは呼べなくても、本人の内部に何かわけの分からないものが湧きあがって苛立ち、
爆発した行動になっているのかもしれない)
実際に自分が認知症当事者、介護者という立場に置かれたらどうなるかは
分からない。
認知症になり「初めまして、セツコ(カメキチ)と申します」と言うか分からない。
言っても「ああ、そうですね。セツコ(カメキチ)さんですね!」と言ってくれる
介護者に当たりたい。
(自分が介護者なら「あるがまま」を受け入れたい)
■ 「ニューギニアの人たちは顔が穏やか」
緩やかな着地、「ソフトランディング」という言葉があるけれど、
人生の終わりは「穏やか」な顔して過ごしたい。
今日の一句
その辺を 一巡りして ただ寒し 高浜虚子