カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.8.11 『なぜ人と人は支え合うのか-障害から考える』 ②その他(①以外) 

今日は②「その他」、三つのことです。

 

ア 感謝する-感謝される」「支える-支えられる」という両者の関係性も、

往々にして逆転してしまうような不思議な場面がありました。

 鹿野さん(難病「進行性筋ジストロフィー」)は私たちに、”障害者としての身体”を差し出して

私たちが「求めるもの」や「人助けの場」を提供してくれていることになります

 

 「〈「障害者が生きやすい社会」は誰のトクか? あわれみの福祉観」ではなく

よくいわれる「障害者も健常者も同じ人間だ」という言葉(の「瞞」)

健常者と障害者とでは、背負っている生の条件が明らかに異なります。…

(障害者同士でも大きな違いがある)

”違う人間”という側面を積極的に認識し合いながら、その違う者どうしが「ともに生きる」ことで

何が生まれるのかを、ごまかさずに考えていくことが大切ではないかと思います。…

「あわれみの福祉観」にしばられている限りにおいて、福祉は”なければないに越したことはないもの”

であり、福祉は社会のお荷物…(という)価値観からもなかなか自由になれません

 

ウ 「〈価値を見いだす能力

(脊髄性筋萎縮症Ⅱ型という難病の当事者海老原宏美さんの言葉)

障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく、『価値がない』と思う人の方に、

価値を見いだす能力がない』だけじゃないかって私は思うんです」

重度障害者が存在しなければ、そもそも「なぜ?」と問う人も存在せず、

価値観を広げる機会自体を社会が失うことになります

 

      

        


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いわれている三つのことは、とても大事なことだけどいわれてみればよくわかる。

けれど)いわれてみなければなかなか気づきにくい。

 

「お互いさま」を相互作用といえば、少し想像しなければわからないことも

多いけれど、どんなことにも当てはまる原理だ。

すべては「関係」「縁」でつながっている

いまの自分が「障害者」であるか「健常者」であるかというのはたまたまのこと

 

鹿野さんは私たちに、”障害者としての身体”を差し出して

私たちが「求めるもの」や「人助けの場」を提供してくれていることになります

 

そういう見方に気づき、そういう見方をしてみると、新たな発見ができる。

福祉」「介護(助)」の場面だけではなく、私たちが生きるということは

そういうことだと強く感じた。

(喜び、楽しいことだけではなく、悲しいこと、辛いことを含め、私たちの人生は成り立っている。

生物ピラミッドの上の動物が、下の動物を狩る場面は「弱肉強食」を思って悲しくなるけれど、

食わねば自分たちが滅びてしまう。滅びてしまわないよう「必要最小限」は食べる)

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障害者も健常者も同じ人間だ」とあえて言わねばならぬところに、そもそも

この社会はそうではない事実が証明されている。

空気のようなものならばわざわざ言う必要はない)

 

「障害者」「健常者」という違いだけでなく、いろいろな人がいて、

いろいろな人生があるという事実の存在。

 

いまは健常でも、誰でもいつでも病気し、怪我をし、障害を負うかもしれない

という事実を認め、「”違う人間”という側面を積極的に認識し合いながら、

その違う者どうしが「ともに生きる」」社会を目ざす。

うする道を歩むことしか、

福祉は”なければないに越したことはないもの”」「社会のお荷物という

あわれみの福祉観」のとらわれから脱け出すことはできない。

(「”違う人間”という側面を積極的に認識」することは、「福祉観」ではなく「人間観」だと思う)

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価値を見いだす能力

震えるほどすばらしい言葉だと思った。

(こっちはまったくすばらしくないけれど、若いころの自分のことを思い出した。

給料が低くても自分で選んだ仕事だから不満はなかったけれど、自分の価値が低いから給料が少ない

とは思わず、自分を評価しない社会が悪い、と自分勝手な理屈を平気で家ではよく言っていた)

 

障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく、

『価値がない』と思う人の方に、価値を見いだす能力がない』だけじゃないか

 

価値を見いだす〉とは、よくいわれる「いいこと探し」と同じことだと思った。

ある人の「いいところ」「長所」を見つけ、自分のある日を思い出し、

「よかったこと」を見つけ、それに気づく。

 

ここで、(脊髄性筋萎縮症Ⅱ型という難病の当事者)海老原宏美さんの言っていることは

何かができるという機能、働きという部分的な「価値」「能力」ではなく、

その人がいる、存在するということの全人的な、言葉ではうまく表せないもので、

強いていえば「存在」感。

「いる」「存在する」ことが、それだけで「いいこと」と感じ、思える。

重度障害者が存在しなければ、そもそも「なぜ?」と問う人も存在せず、

価値観を広げる機会自体を社会が失う

 

(2018年3月に「存在論的ひきこもり論」という本の感想記事を書いたのですが、

そこでいわれていたことと同じでした。

「存在」の重みというようなものを痛感しました)

 

 

 

 

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                              ちりとてちん

 

 

 

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