今日は②「その他」、三つのことです。
ア 「「感謝する-感謝される」「支える-支えられる」という両者の関係性も、
往々にして逆転してしまうような不思議な場面がありました。…
鹿野さん(難病「進行性筋ジストロフィー」)は私たちに、”障害者としての身体”を差し出して、
私たちが「求めるもの」や「人助けの場」を提供してくれていることになります」
イ 「〈「障害者が生きやすい社会」は誰のトクか? 「あわれみの福祉観」ではなく〉
よくいわれる「障害者も健常者も同じ人間だ」という言葉(の「欺瞞」)
健常者と障害者とでは、背負っている生の条件が明らかに異なります。…
(障害者同士でも大きな違いがある)
”違う人間”という側面を積極的に認識し合いながら、その違う者どうしが「ともに生きる」ことで
何が生まれるのかを、ごまかさずに考えていくことが大切ではないかと思います。…
「あわれみの福祉観」にしばられている限りにおいて、福祉は”なければないに越したことはないもの”
であり、福祉は社会のお荷物…(という)価値観からもなかなか自由になれません」
ウ 「〈価値を見いだす能力〉
(脊髄性筋萎縮症Ⅱ型という難病の当事者海老原宏美さんの言葉)
「障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく、『価値がない』と思う人の方に、
『価値を見いだす能力がない』だけじゃないかって私は思うんです」
重度障害者が存在しなければ、そもそも「なぜ?」と問う人も存在せず、
価値観を広げる機会自体を社会が失うことになります」
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いわれている三つのことは、とても大事なことだけど(いわれてみればよくわかる。
けれど)いわれてみなければなかなか気づきにくい。
ア
「お互いさま」を相互作用といえば、少し想像しなければわからないことも
多いけれど、どんなことにも当てはまる原理だ。
(すべては「関係」「縁」でつながっている。
いまの自分が「障害者」であるか「健常者」であるかというのはたまたまのこと)
「鹿野さんは私たちに、”障害者としての身体”を差し出して、
私たちが「求めるもの」や「人助けの場」を提供してくれていることになります」
そういう見方に気づき、そういう見方をしてみると、新たな発見ができる。
「福祉」「介護(助)」の場面だけではなく、私たちが生きるということは
そういうことだと強く感じた。
(喜び、楽しいことだけではなく、悲しいこと、辛いことを含め、私たちの人生は成り立っている。
生物ピラミッドの上の動物が、下の動物を狩る場面は「弱肉強食」を思って悲しくなるけれど、
食わねば自分たちが滅びてしまう。滅びてしまわないよう「必要最小限」は食べる)
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イ
「障害者も健常者も同じ人間だ」とあえて言わねばならぬところに、そもそも
この社会はそうではない事実が証明されている。
(空気のようなものならばわざわざ言う必要はない)
「障害者」「健常者」という違いだけでなく、いろいろな人がいて、
いろいろな人生があるという事実の存在。
いまは健常でも、誰でもいつでも病気し、怪我をし、障害を負うかもしれない
という事実を認め、「”違う人間”という側面を積極的に認識し合いながら、
その違う者どうしが「ともに生きる」」社会を目ざす。
そうする道を歩むことしか、
「福祉は”なければないに越したことはないもの”」「社会のお荷物」という
「あわれみの福祉観」のとらわれから脱け出すことはできない。
(「”違う人間”という側面を積極的に認識」することは、「福祉観」ではなく「人間観」だと思う)
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ウ
〈価値を見いだす能力〉
震えるほどすばらしい言葉だと思った。
(こっちはまったくすばらしくないけれど、若いころの自分のことを思い出した。
給料が低くても自分で選んだ仕事だから不満はなかったけれど、自分の価値が低いから給料が少ない
とは思わず、自分を評価しない社会が悪い、と自分勝手な理屈を平気で家ではよく言っていた)
「障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく、
『価値がない』と思う人の方に、『価値を見いだす能力がない』だけじゃないか」
〈価値を見いだす〉とは、よくいわれる「いいこと探し」と同じことだと思った。
ある人の「いいところ」「長所」を見つけ、自分のある日を思い出し、
「よかったこと」を見つけ、それに気づく。
ここで、(脊髄性筋萎縮症Ⅱ型という難病の当事者)海老原宏美さんの言っていることは
何かができるという機能、働きという部分的な「価値」「能力」ではなく、
その人がいる、存在するということの全人的な、言葉ではうまく表せないもので、
強いていえば「存在」感。
「いる」「存在する」ことが、それだけで「いいこと」と感じ、思える。
「重度障害者が存在しなければ、そもそも「なぜ?」と問う人も存在せず、
価値観を広げる機会自体を社会が失う」
(2018年3月に「存在論的ひきこもり論」という本の感想記事を書いたのですが、
そこでいわれていたことと同じでした。
「存在」の重みというようなものを痛感しました)