カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.2.7 そもそも

(○○は)そもそもどういうことだろうか?」と考えてみることは、

とてもたいせつな態度だと思う。

 

いまの自分を、その自分から離れ、すこし高いところから第三者的に見つめてみる

(「幽体離脱」みたい)察し認識するのを「メタ認知というけれども、それと

通じるところがある。

 

『考えるとはどういうことか-0歳から100歳までの哲学入門』  梶谷真司・著

という本を読んだ。

 

 

「哲学」は観念・想念の遊び、生活に密着していない思われ敬遠されがちだ。

(そもそも「哲学」という言葉がよくないと思う)

ほんとうは、生活に根ざした日常的なものなのに。

(「哲学」という呼び名を変え、義務教育のカリキュラムに取りいれ、子どものときから親しむべき

だと思う

 

「哲学」とは、「そもそも…」と根本に立ちかえって考えてみること。

それはとてもだいじなことだ。

 

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根本に立ちかえって考えてみる。

そうすれば、ある思い、想念に囚われて「不自由」になっていた自分が解放される

という。

 

「幻想」(ときには「夢」)といわれるものに、私たち人間は囚われ、支配されて

生きている、といえる。

(というか、実際は「幻想」が先にあるのだろう。それなくしては生きられない)

だから大事なのは、その「幻想」を根本から問うてみること。

単なる幻想にすぎないのか、幻想として切りすててはならない真実なのか、

明らかになる、と私は信じている。

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「(根本に立ちかえって考えれば)世の中のルール、家庭や学校、会社での人間関係、常識や慣習、

自分自身の思い込み、さまざまな恐れや怒り、こだわりから、

ほんの少しであっても距離をとることができる

 

(前回、「自由」と「幸福」について述べられた本の感想記事に重なるところがあります)

ここでの「自由」は「ほんの少しであっても距離をとること」で可能な主観的、

個人的な「自由」であり、社会の法・制度のような客観的なものではない。

しかし、自由のための哲学」という項目にはこうあった。

 

自由のいろいろ

私が問題にしているのは、自ら考えることで自分が自由になる、ということだ。

(制度や法律のことではない)

感覚としての自由

幻想だろうが何だろうが、自由だと感じるか否かが問題なのだ。

(障害者であったり経済的に困窮していても)本人がそれを気にせず、

あるいは自ら引き受けて生きていれば、自由を感じているかもしれない

 

 

          


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おしまいに一つ、すごく印象に残ったところがあったのでそれを紹介します。

 

大丈夫」は「思考停止」の言葉になりやすい

 

ダイジョウブという魔法の言葉

「ダイジョウブ」ーこれは、自分も相手も嫌な思いをせず、誰も困らず、何の問題もないハッピーな

世の中にするための魔法の言葉だ。…が、思考停止の言葉でもある

 

ここを読む前から、私は「大丈夫!」も「がんばれ!」も好きではなかった。

(日本は大好きでも、「がんばれ日本」も「がんばれ東日本《被災地どこでも》」も。

そもそも、何がダイジョウブで、何をガンバレというのだろう?

考えてもらちが明かないとき、自分の無力を感じ、「大丈夫!」「がんばれ!」

としかいえなくなってくる。

(そう言って自分を励ますのはいいが、その相手が心をゆるせる人ならいいけれど、そうでないなら

その場かぎりの「気休め」しかならない。

自分の胸のうちにだけ留めておくしかないと思う)

 

 

 

 

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                          ちりとてちん

 

 

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