カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.8.4 『なぜ人と人は支え合うのか-障害から考える』 ①の上 

『なぜ人と人は支え合うのか-障害から考える』  渡辺一史

 

 

(グーグル画像より)


北の無人駅から』の著者、渡辺一史さんの本をまた読んだ。

 

この方はノンフィクション作家。

『北の無人駅から』と同じく、ここでも、取材しようとする人の全体と立場を

深く理解した上で、とてもていねいな取材をされ、取材した中身を深く調べ、

それらを自分の頭で熟考し、そして本にされる。

そういうノンフィクション作家としてのたいせつな態度・姿勢を強く感じた。

(それが本の中身によくあらわれている。

同時に、「ブログは自由」とはいっても、何かを主張するとき、先に「結論」「見方」ありきで

事実や現実がどうなのか確かめることなく書く、《そのつもりはなくても》知ったふうな自分の

浅はかさ痛感した

 

大事なことがたくさんいわれていると感じたので3回に分けます。 

そして読みやすくするために、ア、イ、ウ…の項目を設けました。

① 「障害者は本当にいなくなったほうがいいか」

(これだけで2回分。 今日は①の上 次回は①の下)

② 「その他」①以外)

 

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「〈障害者は本当にいなくなったほうがいいか

 「弱者」であることを逆手に

(新田勲さんという重度の脳性麻痺の障害者の「自立」した生き方を、彼を長い間、介助してきた

はいう)

彼は人にものをたのむことをしなければ生存がままならない。

人の手を借りながら、人の身体とまじわりながら自らの生を築いた。

助けを請わなければ生きていけないという負い目を彼は主体的に生きた

(「ホリエモン」の堀江貴文は「介護は誰にでも出来る」と言う。けれども人は)

「誰にでも出来る」と思っている人に介護してほしいと思うでしょうか。

 「やまゆり園障害者殺傷事件」と私たち

「障害者なんていなくなればいい」…植松聖という人物の考え方を高みから全否定するのではなく、

その主張をわが身に照らして、じっくりと吟味してみる必要があると私は思っています。

「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」

「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」

「どうして強い人間が、弱い人間を生かすため働かなきゃならないんですか?」

「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では、弱者を救おうとするのですか?

すぐれた遺伝子が生き残るのが、自然の摂理ではないですか?」

     

      


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 「弱者」であることを逆手に

 

人にものをたのむことをしなければ生存がままならない重度の脳性麻痺障害の

新田勲さんが、一人で好きなように生きよう暮らそうと、普通の地域で普通の家を

借りて生活する。

(新田勲さんのことはネットに詳しいです)

 

新田さんは重度の脳性麻痺障害者。だから、他人に「助けを請わなければ

生きていけないという」厳然とした事実がある。

その事実(現実はあまりに過酷で)ときには負けそうになりながらも、その事実

逆手に」とり、隠す(必要がない)ことなく、ごまかす(必要がない)ことなく、

他人に「助けを請い「主体的に生きた」のだった。

 

主体的に生きた」といえばカッコよいけれど、そんな言葉で簡単にすませては

ならないほど、その生き方は苦難に満ちたものだったに違いない。

重度の脳性麻痺障害者ではない者には、想像するしかない。

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他人に「助けを請わなければ生きていけない」という事実逆手に」とる

という発想は、自分が重度の脳性麻痺障害者であるという事実をしっかり自覚し、

その事実にきちんと向き合ってこそ生まれるのだろう。

 

「重度の脳性麻痺障害者」ほどの重さがなくても(私の場合、「眼振「複視」という

視覚障害も重なった「平衡障害者」)、また障害者であるかどうかに関わらず、人は誰でも

多かれ少なかれ何かの当事者だと思う

(「汝自身を知れ」という。 自分は何者で、どこからきて、どこにいこうとしているのか)

その事実をしっかり自覚し、きちんと向き合うたいせつさを強く思った。

 

誰にとっても一回限りの人生なのだ。

 

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 「やまゆり園障害者殺傷事件」と私たち

 

植松聖の「障害者なんていなくなればいい」という考え

障害者など弱者が生存する価値の有無」、

「障害者など弱者のために健常者など強者が納税などの負担を負うことの意味」、

「自然界では弱肉強食…遺伝子…自然の摂理」…

 

私たちは植松聖の考えを高みから全否定するのではなく、

その主張をわが身に照らして、じっくりと吟味してみる必要がある

と著者はいう。

ほんとうに大事なことだと思う。

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障害者なんていなくなればいい」という考えは持っていなくても、

自分の子どもは(遠慮がちに言う)どちらかというと障害はない方がいい」。

人間も生きもの、いのちある存在、あたり前の願い。

(そう願うから「出生前診断」という医療技術が登場した)

 

本心は(ない方がよくても)、自分の子どもだから障害があってもいい。

けれど、世の中は障害者であると生きにくい。そういう社会が先に存在している。

後からそこで生きていかなければならないのだ。

(「弱者」という表現がある。人間についていうなら正確には「社会的弱者」と呼ぶべきだと思う。

障害者などは、「弱者」というわけのわからないのっぺりとしたお化けでなく、「普通の人」

「健常者」「マジョリティ」と呼ばれている人との比較のうえ、相対的に生きにくいことを指して

「弱い」「弱者」とされる)

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障害者なんていなくなればいい」という考えは持っていないと(自分では)

思っていても、この世の中で生きている、暮らしていているということだけで、

知らずしらずに(それとわからぬよう)自然に、その世間、社会に支配的な感性、

発想、思考に合うよう、なじむようになる。

 

敢えてわが身に照らして、じっくりと吟味してみる」必要がある。

そうしなければ、「勝つか負けるか」「食うか食われるか」「成功か失敗か」…

常識」はこうだという「現実」「現状」に流されるしかない。

(「流される」ということも「自分の幸せ」にはなるだろうけれど

 

 

 

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                          ちりとてちん

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