ある本を読んでよかったと思ったら、またその著者のものを読みたくなり、
保坂和志さんの、こんどは『途方に暮れて、人生論』。
(グーグル画像より)
①「人生を感じる時間」
②「いまの状況にまんぞく…」
という二つのことが心にとても強く響いた。
それだけ書きます。
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①「人生を感じる時間」
「最近、道を歩いていたり、部でぼんやり外を眺めたりしているときに、
〈有名人の人生〉というのが頭をよぎっていく。…
普通の人の何倍もの密度があったと言っても、普通の人の人生というのは、
密度ではなく空虚さによって実感されるようなものなのではないか、と最近私は思う…
家の中の猫たちだけでなく、ノラ猫たちを含めて、すべての猫たちが
私には〈人生の素顔〉を見て毎日を暮らしているように見えるのだ。
それは忙しく生きて、いろいろな場所へ行っていろいろな人と会う人生では経験することのできない、
何と言えばいいのか…人生の中でしか経験のしようのない時間、とでもいうような時間だ。…
もうほとんど常態化している〈人生の素顔〉と向き合うこと、猫のように、
時間があまってしまった子どものように、〈人生の素顔〉と向き合うこと、
それは楽しいわけではないけれど、「それが人生なんだ」「生きるとはそういうことなんだ」…
それが私にはかけがえがないし、尽きない興味の対象でもある」
ここを読んで、なんかわかるなあー、いいなあー、という気もちになってきた。
著者は大の猫好きだ。
(ウチでは飼っていないが動物好きの方が読者におられ、お気持ちがすごく伝わってくる。
その方たちのペットへの深い思いや愛情は、ご自身の人生を豊かにさせてくれているということが
記事から強く伝わってくる)
私も〈有名人の〉とまではいかなくても、華やかな人生を想像し
もしかしたら「あり得た」かもしれないと思うけれど、
同時に悲惨な人生も「あり得た」わけだ。
たしかに〈有名人の〉ともなれば、(なったことないので実際はわからないけれど)
「忙しく生きて、いろいろな場所へ行っていろいろな人と会う人生」
を送らなければならないのだろう。
決して負け惜しみを言うのではないけど、そんなの絶対イヤだ。
(〈有名人〉は「人気商売」だろうから、イヤでも愛想笑いしなければならない。
顔が引きつる。ああー、想うだけで気が狂いそう…)
「猫のように、時間があまってしまった子どものように
〈人生の素顔〉と向き合うこと」
それが最高だ。
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②「いまの状況にまんぞく…」
「いまの状況にまんぞくしていたら、それ以上を希望する必要はないし、
別の可能性を考える必要もないはずではないか」
ホントにそうだなあーと思う。
「希望や可能性」をかなえよう(近づこう)と努力する(頑張る)ことはすばらしい。
けれども、それは「怠惰」といわれてしまえば話は続かないけれど、
努力やガンバリが苦手な人は必ずいる。
私も確実なそのうちの一人。
努力やガンバって何事かを成しとげたと自慢できることは何もない。
老いたいま、自分の選択した道をふり返り、あらためて私は、イヤなこと、
辛さ・苦しさが予想されることは避けてきたことを自覚する。
(そんな生き方は常識的には情けなく、恥ずかしいことだけど、私は恥ずかしくはない。
ただ自分ではそうしていても、苦難は向こうから《望まなくても》やってくるので逃れられない。
障害を負ったことはそういうこと。
そこでの苦労は受け入れるしかない。仕方ない)