カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.9.15 〈責任〉と「中動態」

いろいろな想念がわき、思ったり考えることがある。

 

「いろいろな想念」のうちには、死ぬまでには知りたい、わかりたいなぁと

思うことがある。

(残った時間は少ないので、「知る・わかる」といっても自分なりに納得できればいい)

しかし問題は、「知りたい」「わかりたい」ことが漠然としていて何なのか?…

よくわからないこと。

 

しかし、ある本を読んだ後に(結果として)それ何なのか(何だったのか)わかった

感じがすることがある。

それで読書する。

(ブログ記事で読書感想を書くのはだいたいそうです。

ときどき、自分にとって「大発見」があり、8月15日の「男のセリフ」もそうだった。

いまから感想を書くこの本もそうです)

 

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『〈責任〉の生成-中動態と当事者研究』  國分功一郎 熊谷晋一郎 

 

 

國分さんは哲学者熊谷さんは自身が身体障害者であるという事実当事者)

原点として人間を研究する方。お二人の対談形式の本です

私には難しかったけれど、とても大切なことが述べられているのわかり、

自分のいい加減な理解に妥協しながらも終わりまで読んだ。

 

次回から、いちばん心に残った三つのことだけ書きます。

①「外在化」-「免責」から「引責」へ

ハイデッガーの「蜜蜂」

フランクルの「人生の責任」

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三つのことに入る前に、

今日は、書名にも出てくる責任〉、中動態」について簡単に述べます。

 

(私は仕事をしていたとき《小さな職場》まだ責任〉ある立場についていなかったが、

突然の事故に遭って障害を負い、責任〉どころか「戦力外」になった。

そういうこともあって責任〉を身近なところで思ったり考えることはないけれど、

世間では、法を犯しているわけではないので犯罪にはならない「ハレンチ」や、

一線を越えてしまい罪となる「事件」が起きており、否応なしに責任〉が頭に浮かぶ)

 

私たちは「責任を感じる」「責任を取る」などと言うけれど、

そもそも〈責任〉とは何だろう?

簡単に感じたり、取れるものなのだろうか?

(と、本は問う)

ーーーーー

私はこの本を読んで、「中動態」という言葉を初めて聞き知った。

 

「受動」「能動」とはよく言うけれど、「中動」とはそれらの間の状態らしい。

つまり、

私たちのあり方、行為の現実は、100%完全に消極的、受身ということはなく、

かといって100%完全に能動的、積極的、主体的とはいえない。

つまり、

日常の何でもない生活行動の選択においても、

非日常の人生の岐路を決めるような重大な進路の選択の場合でも、

一見したところ、その態度、行為は、その人が意志して選択して決めたようでは

あっても、すなわち能動的に思えても、

実際は、その意志形成、選択されるまでにはさまざまな要素、過程、経験

あり、それらが複雑に重なり合ってのことで、そういう意味では

他なるものにそうさせられている、受動的だともいえる。

 

中動態」的、中動的に見るとは、「自分の意志でそうした」とか「選択した」

(逆に「そうさせられた」)と、初めから断定して見ない、ということだと思った。

(私個人の解釈・感想で、國分さんたちの言おうとしていることを誤解しているかもしれないです)

 

        


ーーーーー

というわけで、〈責任〉を考えてみるとき

中動態」的、中動的に見ることのたいせつさを強く感じた。

 

ある人のその〈責任〉を問う、責めるとき、その人に「自分の意志でやった」

という自覚とともに、その「しでかしたこと」に対しての責任〉を感じるような

原因も自覚できていなければならない。

そうであればこそ、当人は本心から後悔、反省し、改心できる。

責任〉を取れる。

 

けれども、「自分がしたことに間違いない」と認めていても、

そのときは「無我夢中」、忘我の状態だったので覚えておらず、

意志があったかどうかはよくはわからないということがある。

 

そんな場合、「しでかしたこと」が殺人事件のように社会的に重大な事件ならば、

意志の有無に関わらず社会的な責任〉が問われる。

(その人の個人的事情、心の状態に関わらず、社会に責任〉を取らされる)

 

 

ーーーーー〈オマケの話〉ーーーーー

さっき「ハレンチ」と書いた。

 

一昨日の朝日デジタルニュースにあった記事を引用します。

佐川氏の尋問、高裁も採用せず 赤木さん妻が請求 

公文書改ざん訴訟

学校法人森友学園への国有地売却を巡る財務省の公文書改ざん問題で、改ざんを強いられ

自死した近畿財務局職員の赤木俊夫さん(当時54)の妻・雅子さん(52)が同省元理財局長の

佐川宣寿(のぶひさ)氏に損害賠償を求めた訴訟の控訴審弁論が13日、大阪高裁であった。

黒野功久裁判長は、雅子さん側が請求した佐川氏本人や他の財務省幹部ら4人の尋問を

「必要ない」として実施しないと決定。そのまま結審し、判決を12月19日に指定した。

 雅子さんは弁論後に取材に応じ、「夫が亡くなった理由がまたわからずじまいになった。

佐川さんは法廷でなくてもいいから、自分のしてきたことを言えばいい」と話した。

 佐川氏は、財務省が2018年に公表した調査報告書で「改ざんの方向性を決定づけた」と認定された。

雅子さんは訴訟を通じ、俊夫さんが自死に至った経緯の解明を希望しており、

一審から尋問を求めてきたが実現しなかった。

公的、社会的な罪に問われ〈責任〉を取ることは免れても、

個人、ひとりの人間として、佐川氏、こんな判決をした大阪高裁の黒野裁判長は

恥ずかしくないのだろうか?

(とは勝手にこっちが思うことで、あっちにすれば、お二人ともそれぞれの立場で

立派に責任〉を果たされたわけだろう) 

 

 

 

 

 

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                             ちりとてちん

                            

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