カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.12.29 ぶどう畑の雇われ人

今年最後の更新となった今日は「ぶどう畑の雇われ人」という話です。

 

ごく簡単に言うと → 

ぶどう畑の主人に雇われた人たちのうち、一日中働いた人と、

その日の途中に雇われたので、その途中から一日の終わりまでしか働かなかった人の日当が同じ

だったので、一日中働いた人は不公平だと怒り、主人に文句を言った。

 

しかし、主人は言った。

「私はみなさん(雇われ人)を公平に扱うとだけ約束した

労働時間に応じてお金を支払うとは言わなかった」

 

この話はキリスト教にあるようです。

私はキリスト教は無知なのですが、グーグルを検索していたら、ぶどう園の労働者たち

《「末日聖徒イエスキリスト教会》の記事》に当たり、それには考えさせられました。

こちらは宗教なので「信仰」の問題が説かれているのですが、そのことも頭に入れて書きます。

 

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■ 〈運・不運をどう受けとめるか

 

一日中働いた人は(初めから雇われていたということで)

「初めから」ウンがよかったといえる。

つまり、幸運だったと思う。

働きたくても初めに雇われなかった人はついていなかった。不運だったと思う。

途中で雇われるまで、不安で胸がつぶれそうだった。

(初めから雇われた人は、途中からの人のように「不安で胸がつぶれそう 」な思いはしなくてすんだ

ウンがよかったといえる)

 

初めから雇われた人が一日の終わりに受け取った日当は、途中から雇われた人と

同じだったけれど、不利益を被ったわけではない。

(ただ、自分たちは一日中働いたので、途中で雇われた人より労働時間は明らかに多い。

そのことが考慮されないのは道理にかなっていない、不公平だと彼らは言う)

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真の「公平」を実現しようとするなら、差をつけなくてはならないのか?

日当は同じであってはならないのか?

(こういう理屈からすると、「格差」の存在という現実は道理であるかのようだ。

裕福な人たちはもともと優れていた能力を持って生まれ《ウンがよかった》、なおかつ人生の荒波で

その能力が開花し、社会的に成功した《これもウンがよかった》わけで、「格差」の存在という現実は

真の「公平」の実現ということになる)

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ところで、話の「ぶどう畑の主人」とは、「神」(万物を司る絶対者)のことだと

思われる。

「神は万物を公平に扱う」「不公平をお許しになるはずはない」。

だから、「公平に扱うとだけ約束した」

 

けれども、現実の世の中、社会を見ればご覧の通り。

不合理、不公平、不平等、不正、悪…がまかり通っている。

 

神はいて欲しいけれど、現実の世の中、社会に神がおわすとは到底、信じられない

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しかし、「信じる」「信仰」という行為が可能な個人の内面、心には

存在し得る。

 

         


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■ 〈著者は本の中で、こういうことを述べる。

「人間も生物だから個体のレベルでは仕方ないにしても、社会においては

運・不運ではなく「公平に扱」われなければならない」

 

個人の能力は社会のものでもある

努力ができるのも運のうち」という考え方を紹介される。

 

個人の能力は社会のものでもある

個人、一人ひとりが集まって社会を構成するのだから、個人が初めから持って

生まれた能力(素質)や性質(性格)、家や地域などの環境も社会的なものとして

とらえる。

 

努力ができるのも運のうち

自分という人間の存在、自分の人生(突きつめていうと)「たまたまのもの」、

「偶然」。

努力ができる」のも、「開花」するのかどうかも「運のうち(といえる)

 

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私は、(初めで述べたぶどう園の労働者たち」というネット記事で)信じる

(「信仰」を含む)ことの大切さを強く感じた。

 

極端ないい方をすれば、「神」を信じなければ生きてはいけないと思った。

(「口で信仰を告白する」、「誓う」、「祈る」といった次元の問題ではない)

 

先のネット記事ぶどう園の労働者たち」)で、「他人を妬んではいけない」とある

(途中で雇われた人の労働時間が自分より少ないのに日当は同額ということに憤っていた初めから

雇われた人に対して、「末日聖徒…」司祭はネット記事で述べられていた。

人に付け加えられても,自分のものが取り去られるのではありません。

わたしたちは,豊かさや才能,美しさ,祝福の多さを競っているわけではありません

 

比べる、比較には要注意だ。

妬み」「嫉み」が出てきやすい。

(高じると私のように「僻み」っぽくなり、ひねくれる。

ブログ記事ではうなずいてもらえそうなエラそうなこと《この記事だって》書いているが、

本当のところは妬み」「嫉み」「僻み」で満ちているのでは?と自分を疑る。

いい意味で「わたしはわたし」「あんたはあんた」でありたい)

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人は、個人こじん、一人ひとりにより人生は生まれたときから死ぬまで違う。

「あんたはウンがいいなぁー」と言われそうな人生もあれば、

「あんたはついてないなぁー」と思われるものもある。

(人生は「ウンまかせ」。

でも、「幸運」=「幸せ」とは限らない)

 

 

 

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                             ちりとてちん

今日の俳句

晦日 ここに生きとし 生けるもの  高浜虚子

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