カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.9.26 フランクルの「人生の責任」

③ フランクルの「人生の責任

 

人は望んで生まれるのではないから、つまり能動的に生まれるわけではないから

人生」と「責任」は関係ないと思われる。

 

しかし、「生まれる」「誕生」だけを見れば受け身、受動的であり、

「偶然」に支配されているようであっても、たまたまこうだった」といえるけれど)

長い目で人生を見れば責任」は生きる主体、当事者は自分だという強い思いが

あるところにしか生まれないから、主体的に生きようとすれば関係ない

とは決して言えない。

 

(私もフランクルの『夜と霧』、『それでも人生にイエスと言う』も読んだが、

熊谷さんのように深くは読めなかった)

 

           

              (グーグル画像より)

 

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当事者研究に影響を与えた人物に、精神科医ヴィクトール・フランクルがいます。

彼も「責任」という言葉を使いますが、一般的な責任とは少し異なっています。

 

彼は人間を、人生から問いを投げかけられている存在と捉えたうえで、

私は人生に何をまだなにを期待できるか」ではなく、

人生は私になにを期待しているか」を考え続けること、それが責任なんだと言っているのです。

人生がわたしに何を問いかけているかを考えることに責任が宿ってくる。

フランクルの言う責任は、必然的に自分の人生を振り返ることを要求します。

 

僕は意志とセットにならない責任のあり方として、覚悟のことを考えています。…

運命愛のようなもの

 

絶滅収容所の中で、フランクル心、精神をどのようにして正常に保ったのか?

絶望しても、(自殺しない限り)ただ単に動物のように「生存」に徹するか、

精神を病み、狂うか。

 

フランクル絶望という極限状態において、そういう状態に陥った自分の人生

(ウンが良かった悪かったというような「偶然」の問題、次元を超えて)

なにを期待できるか」のではなく人生は私になにを期待しているか」と問う。

 

何ということか、ここでは「私」ではなく「人生」が主語になっているのだ。

現実の私という身心、主体の中で、主語は「私」でなく「人生」に反転している。

(社会《とくに政治》への自分の無力を想うとむなしくなるが、主語を自分ではなく人生にすれば

結果を気にすることではなく、己の為すべきことをきちんとやっていくことしかないと思えてきた。

すごく胸にくる話だった。

 

フランクルのように、「絶望という極限状態」が社会によって自分にもたらせるのではなく、

普通の人生においても、日常の人生においても「自分の力ではどうしようもない」物事はあり、

起きるのだ

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絶滅収容所の囚われの身、絶望という極限特殊の状態にあるフランクルと、

一般状態の私たち。

しかし、一回かぎりの自分の人生という点において二つは変わらない。

フランクルにとっての人生は、その人生以外にはあり得ないわけで、私にとってのそれは、

これしかあり得ない)

 

そして、(「一般的な責任とは少し異なってい」るけれど)

人生がわたしに何を問いかけているかを考えることに責任が宿ってくる」。

続けて言われる。

その責任とは「必然的に自分の人生を振り返ることを要求します」と。

(その言葉がズッシリ、とても重く感じられた)

絶滅収容所の囚われの身、「絶望という極限」特殊の状態にあっては、

自分の人生を振り返る」という形でしかあらわせない。

 

一般状態の私たちも、「自分の力ではどうしようもないもの」が起きたとき、

自分の人生を振り返る」ことはたいせつで、それしか(「一般的な責任とは少し

異なってい」るけれども)責任を取れないのではないか

 

 

          


ーーーーー

また、そんなフランクルの態度こそが中動態的なものだと熊谷さんは述べられる

 

中動態といえば何か無責任な印象を受けても仕方ないのに、責任について考えていくと、

むしろ中動態的なものがなければとても責任を引き受けるに至ることができない

 

中動態というのは、能動態でも受動態でもない。

 

責任取る、責任を引き受けるためには、自分が自由にそれを選んだ、

主体的に選択したことが前提になくてはならないが、

自分の人生に「自分の力ではどうしようもないもの」が起きたとき、

それは能動的に自分が選んだ、主体的に動いた結果ではなく、かといって一方的に

まったく自分が受け身、受動的だったとはいえない。

(仏教でいうように「そもそも人生は思うようにはならない」のだ

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最後に熊谷さんは「覚悟」ということをいわれる。

(熊谷さんは、生まれたときからの障害者として生きてこられた。

「よりによって何で自分が…」と悩み、さまざまな苦難を乗りこえてきたからこその言葉だと思った)

 

意志とセットにならない責任のあり方」、すなわち、これは自分の自由な意志

能動的に決めたことだから責任を取るが、あれは「自分の自由な意志で、能動的に

決めたこと」ではないので責任を取らないのではなく、

覚悟」するという形で責任を取る。

そして、

そういう覚悟」は運命愛」といってよいのかもしれない。

(最悪、「やぶれかぶれ」になっても、「やぶれかぶれ」の状態に陥ったのは誰彼の責任

他人へ転嫁するのでなく、自分のことだから責任は自分にあるとするのは自分の運命へのなのだ)

 

 

 

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                             ちりとてちん

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