今日の話は「百万分の一の命」といいます。
暇さえあればせっせと、海辺に打ちあげられたまだ生きているヒトデを海に戻している人がいた。
それを見た人が「すべてのヒトデを救えないのだから、その行為は無意味である、
一匹のヒトデだけを救うのは不公平である」と言った。
(グーグル画像より)
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著者の主張、人生教訓は単純素朴だ。
ごく小さな力でも大きなうねりを生むことができる。
確かに、「すべてのヒトデを救えない」というのは事実だが、
一匹の生きているヒトデを海に戻してやるのは「無意味」ではない。
なぜなら、生きているということはその一匹が生きていることであり、
「ヒトデ」一般という抽象的な生きものが生きていることではないから。
(もちろん、「すべてのヒトデを救」いたい。
《それが可能な方法があるなら教えてください!》
「無意味」「不公平」でも、「自己満足」「名誉欲」でも何でもいい。
わたしゃともかく、一匹でも多くのヒトデを救いたいのだ)
たまたまその人の目にとまったその(個別の)ヒトデは海に戻されたわけだ。
すべてではないが、一つの命が救われた。
「すべてのヒトデを救えない」という事実が理屈の「事実」なら、
こちらは実践的な、同じく立派な事実。
モノでもコトでも、何でも最初は1から始まるのだ。
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著者は続けて、
「すべてのヒトデを救えないのだから、その行為は無意味である、
一匹のヒトデだけを救うのは不公平」と言った人に対して言う。
「これは屁理屈だ。…自己欺瞞
…
無力はどれだけ足し合わせても、掛け合わせても、その力はゼロのままである。
それに対して、微力を足し合わせたり、掛け合わせたりすれば、大きな力になりうる。
…
人間一人の力は決して無力ではないである。微力なだけである」と。
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「微力なだけ」は1とか2、3のように小さい、小さいが存在するということ。
それは、決して「無力ではない」というあたり前のこと。
(私には「微力」という言葉がとても強く胸に響いた。
「雨垂れ石を穿つ」というけれど、それは時間の積み重ねの大事さを表している。
それに対して、空間の広さでは「ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスにトルネードを起こす」
という話を著者は述べられていた)
無力は0(ゼロ)。
「どれだけ足し合わせても、掛け合わせても、その力はゼロのまま」
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ここまで書いてきて、ふっと思った。
「無力」感に苛まれ、現実「微力」であっても、自分のわからないところで
「足し合わせ」たり「掛け合わせ」たりできているからこそ、
この程度の被害、悲惨、薄情ですんでいるのかもしれない。
そう信じようと思った。
今日の俳句
日本が ここに集まる 初詣 山口誓子