カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.9.22 「ハイデッガーの蜜蜂」

今日は、②「ハイデッガーの蜜蜂」。

(「ハイデッガーの蜜蜂」とは、ドイツの哲学者ハイデッガー蜜蜂を用いたある実験について

言及したことを、著者の國分さんがハイデッガーの蜜蜂」と命名して述べたものです

 

        私たち人間もミツバチも待ちわびた春はすぐそこ。3月8日は「ミツバチの日」です(季節・暮らしの話題 2019年03月07日) - 日本気象協会  tenki.jp さん

              (グーグル画像より)

 

21世紀の人間は、アマゾンで何かを買ったら一日もしないうちに届いてしまうような、

いわば欲望が瞬間的に満たされる空間に生きている。

そこでは、欲望が自分のなかで醸成されるような溜めも、発酵されるような時間もない。

すべてがダダ漏れになっている。

僕は21世紀の人間に対して、この実験台にされたミツバチのようなイメージを持っています。

ある種の傷の否認(おなかの切れ目に気づかない)、過去の参照の放棄(どれだけ飲んだか

わからなくなっている)、そして、終らない労働(いつまでも蜜を飲み続ける)

 

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ハイデッガーが言及している蜜蜂を用いたある実験とは、ユクスキュルという

同じくドイツの生物学者・哲学者が行ったもので、「動物の放心」状態を観察する

というもの。

 

実験は、蜜蜂一匹を、蜜を満たしたコップの前に置いてみて、

その蜜蜂はどうするか?どういう行動をとるか?と観察する。

結果は、

もちろん大好きな蜜を吸う。ただただ吸い続ける。

(「蜜が好き」というよりか本能がそうさせている。

人間からは「蜜が好き」というふうに見える)

           


実験には続きがあり、その後、蜜蜂の腹の一部を(死なないよう)うまく切り、

吸った蜜はそこから漏れるダダ漏れようにする。

けれども、

蜜蜂は漏れていることに気づかない。

(そればかりか、自分の腹の一部が切られていることさえ気づいていない。

《ホントは気づいており、「切らんでくれぇー」と伝えられないのだけかもしれない。

「実験」と称し、なんと人間はバカな、酷いことをするのかと感じているのかもしれない)

 

人間(この場合、ハイデッガーの結論。

このときの蜜蜂は、吸蜜行動に夢中で、「放心」状態にある。

好きだから蜜を吸うというより、ただ動物としての自然の本能にしたがって

吸い続けているのだ。

(すなわち「本能に支配されている」)

 

蜜蜂は、自分のやっていることを客観的に見ることはできない。

蜜蜂は、自分のやっていることの意味を問い、理解することはできない。

そういうのは人間だけができる。

 

人間も生きもの、動物だから、「欲望」そのものは生のエネルギーとして

不可欠のたいせつなものだけど、それが

溜め」られることも「発酵」されることもなく、ダダ洩れ」になっていないか

ときどきは確認、点検してみなければならない。

(と、以上のように國分さんは述べる。

昔、「欲しい物があっても3か月ガマン、待ってみる」と聞き、「なるほど!」と実践してみたが、

私は3か月も待てなず、欲望の実現と引きかえに自分の意志の弱さを感じることになった。

その欲望が3か月も続けば、それは溜められ、発酵し、ほんとうに欲しい物になるだろう

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21世紀の人間に対して、この実験台にされたミツバチのようなイメージ…

 

ある物が欲しくて店に行けば、その物だけでも多種多様だ。

これほどいっぱい揃っていても質はたいして変わらないので、問題は値段。

「たいして変わらない」といってもちょっとした違い、差を見つけ、

いちばんお得になりそうなものに決める。

高価な物は、買った後で損した気もちになりたくないので(実物を見たり

触られない欠点はあるけれど)ネットも選択肢に入れる。

 

いずれにしろ、気の遠くなるほど膨大な商品があることを知り、

「これほどの商品が全部売れるのだろうか、余ったらどうするんだろう?」と、

部外者といえども要らん心配までしてしまう。

(お金という交換価値、幻想の問題ではなく、使ってなんぼ、使用価値、現実の資源の問題なのだ)

この「心配」は真っ当だと思う。

 

「未来に生きる子孫たのことを想うなら、こんなことしていていいわけない」と

感じ思っていても(私もそうだけど)「思わない、感じない」ようしている。

このことは、「ある種の傷の否認(おなかの切れ目に気づかない)」ではないだろうか。

 

人間は蜜蜂ではない。

気づこうとしないから、「おなかの切れ目に気づかない」のであり

わかろうとしないから、どれだけ飲んだかわからなくなっている」。

いつまでも蜜を飲み続ける」であればいいけれど、そのうち、死んでしまう。

 

〈オマケ〉

私たちの消費行動を、本書の主眼、「中動態」的に見れば、その商品を自由意志で選んで買っている

ように見えても、買わされているということになる。

欲望」の実現である消費行動で、「溜め」も「発酵されるような時間」もない「ダダ漏れ」状態は

まさに「買わされている」状態なのではなかろうか。

 

 

 

                         

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                               ちりとてちん

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