桐野夏生の『路上のX』という小説を読んだ。
(グーグル画像より)
物語に出てくる「JK」という言葉、流行の言葉かもしれないがどこかで聞いた。
小説はたまに読むくらい。
先の大江健三郎さんもその一人として書いていた『大震災の中で』という本に
桐野さんも東日本大震災について書いておられたので、読んでみようともうと
思ったわけだ。
この小説で描かれた「JK」とは、きわめて現代的かつ都会的な日本の風俗だけど
ごくごくごく一部の現実でしかないにしても、(ロシアのウクライナ攻撃、戦争で死ぬ
などの被害を受ける人たちと同じように、ごくごくごく一部かもしれず)ほとんどの人には
関係のない世界の出来事にしても、確実に存在している。
そのことの重みをズシリと感じた。
ーーーーーーーーーー
小説のエキスだけ言うと、16、7の女の子が(自殺しない限りは)生存(そう「生存」)
しなければならないので「ホレ、お金をやるから…」と言われれば、「自己責任」
とわかってはいても、大人の男の性的欲望の対象になり(され)、最悪のことを
やらされ、またレイプという最悪の体験をし、身も心もズタズタに引き裂かれる。
引き裂かれたままでは生存(そう「生存」)していけないので、仲間(三人)で
助けあって生きていこうとする。
作品は、一見、希望の見えない話、底なしのドロ沼の物語という感じがした。
ーーーーー
主人公たち三人は、いわゆる「普通」の家庭の女子高校生ではない。
「もっと、もっと…」という消費の欲望をあおる流行などへの欲望を満たすための
金欲しさの「援助交際」の当事者でもない。
主人公の彼女たち、二人はどうしようもない親たちから生まれた。
「どうしようもない親たちから生まれた」という事実はウン、運命みたいなもので
それこそ自分の力では「どうしようもない」と、いまは世の中のものごとも
それなりに理解できる年齢になっているのであきらめている。
親から一方的に「生存」(そう「生存」)させてもらう以外ない幼いときから、
言い尽くせないほど身勝手な言動、残虐、苛酷な体験を受けつづけけながらも、
どうにか生き抜いてきた。
親には絶望しているけれど、いまは17でまだ完全には大人になり切っていなくとも
自分で自分をコントロールできることもあり、「JK」などしながらギリギリでも
何とか生存(そう「生存」)している。
一人はちゃんとした「普通」の家庭に生まれ、自分たちにはない育ちのよさが
身についているのが上述の二人には感じられる。
が、16になった彼女に突然の家庭崩壊(親の都合)が起こり、続いて不幸な試練が
訪れ、自ら招いたこととはいえレイプされ、路上に放り出されたが、二人に出あい
救われる。
ーーーーー
大人の男の性的欲望の対象にされるということで三人は同じ、
生涯癒えることなど絶対ない。
性自体は肉体のことであっても、身体と心を分けることなど出来るはずがなく、
肉体に受けたどうしようもない傷は心に刻印され、生涯、消えることはない。
だが著者は、この小説において子どもの性的被害という事実だけでなく、
大人を前にしては絶対的に弱い立場にあり、
性的被害のような直接の暴力、剝き出しの力によらず、
間接的にジワジワと(それとわからぬよう)社会、世の中の不正、不公平に慣らし、
そういうことへの「免疫」をつけさせていく親、大人の身勝手を、
子どもの立場にたって「告発」しているかのようだ。
(そういう感想を強くもった)
ーーーーー
この長編の小説を読むまで私は、その親、大人の庇護のもとでしか生存できない
子どもたちが、親である大人から(ネグレクトを含む)虐待を受け、「見捨てられた」
感覚を持ち、そんな感情を抱いたとき、当の子どもは取り返しのつかない心の傷を
いかに深く負っていることか、そこまで想像したことがなかった。
(「子どもはいつまでも子どもではない。彼らも大人になれば『親の事情』『大人の事情』がわかる
ようになる」という理屈がある。
なぜ、子どもの自分に親は虐待したのか、あれは虐待ではなく『親の事情』による「しつけ」。
親の不倫は『大人の事情』によれば「純粋な愛」のあらわれ。
ふざけるな!
戦争は『国家の事情』でござります。
クソくらえ!)