最近の記事(『死ぬ意味と生きる意味』)に、
ある「事実」も、それが自分と関係をもたないならば(関係ないと思い、考えるなら)
その「事実」は当事者(自分)にとって「意味」(価値)はない、との引用を述べた
ある「事実」は、自分の「アンテナに引っかかった」(本での表現)とき、
「意味」や「価値」をもつ。
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「死ぬ生きる」のような大事ではないので、私のアンテナに引っかかりかけたまま
ずっと放っておいた「光合成」。
詳しく知りたくて、
『光合成とはなにか-生命システムを支える力』 園池公毅
という本を読んだ。
「光合成」は、大げさな表現ではなく、ほとんどすべての生きもののいのちに
関わる根源的にたいせつな「事実」だからか、学校教育でも小学校から中・高と、
果ては大学まで、成長の節目ごとに扱われる。
「小中学校レベルの答えであれば、光合成とは「植物が光によってデンプンなどを作る働き」…
(中学校では)水、二酸化炭素が光合成に必要で、酸素が発生することがサラッと触れられます。…
(高校では)光合成により水が分解されて酸素が発生し、二酸化炭素が固定されてデンプンなどの
(大学のレベルでは)「光によって環境中の物質から還元力を取り出し、その還元力とエネルギーに
本は一般向けでも、原子・分子の化学記号やそれらの構造模型の引用が多くて
私には難しすぎたので飛ばした(読まなかった)ところが半分以上だった。
で、読書感想もほとんどない。
ただ、ここで初めに述べた「事実」の重みといったようなものを痛感した。
「事実」は客観的な存在、世界。
こちらが興味や関心を持とうと持つまいと、関係なく存在している。
が、私にしてみればその「事実」はそこに存在していても、ないのと同じこと。
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「光合成」も、「自分には関係ない」と思えば、私には(「皆無」ではなくとも)
「無意味」「無価値」、どうでもいいことになる。
人は誰も世界の、無限とも言えるさまざまな物事の中から自分にとっての意味や
価値を選び、見出し生きている。
少しでも気にかかる、アンテナに引っかかりそうな「事実」は自分にも関係ある
(いまはなくても、将来なる)かも…ととらえ、「意味」「価値」あるものにしたい。