『ものの見方が変わる…』寓話もこれで終わりです。
最後の話の中身は「科学技術の進歩と人間」。
(12.8の『猿猴捉月』で著者は山本夏彦の、月は「行くもの」ではなく「見るもの」という言葉を
紹介されていた。
私は「人生でほんとうに大切なものは何か?」と問うとき、すごく考えさせられる言葉だと思った)
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終わりの話は二つ。
一つは「魔法使いの弟子(「宅急便のキキ」ではありません)」で、
もう一つは「水車小屋の男」。
(「魔法使いの弟子」 → ちょっと魔法が使えるようになった弟子が調子に乗り、
師匠に頼まれた風呂水を溜めるという仕事を、箒に魔法をかけてバケツで水を運ばさせた。
ところが、風呂水がいっぱいになっても箒は運び続けたので水は風呂からあふれ出し、弟子は大慌て!
弟子は魔法をかけて箒に水を運ばせること《そのためのスタート》のチチンプイは出来ても、
終わらせかた《ストップ》のチチンプイは出来なかったのだ。
「水車小屋の男」 → 水車小屋で働く男は生真面目で、うまく粉をひくために一生懸命だった。
ところがある日、ふと水車の構造、回る仕組みなどがどうなっているのかが気になり、その理屈、
論理を知りたくなり、肝心のうまい粉をひくという仕事を放ってまで知ることに没頭した。
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著者はいう。
「魔法使いの弟子」
(まるで魔法のような)科学技術の進歩と(その使い方)「人間の善き生」…
理念なき科学技術の進歩は「ブレーキもハンドルもなくアクセルしかついていない自動車」…
(東日本大震災による福島第一原子力発電所のメルトダウン事故の衝撃…)
…
(人類は、原理的には分割不可能とされてきた原子核を分裂させ、天然には存在しない放射性元素を
人工的に創造…核エネルギー…)
この離れ業が「人間の善き生とは何か」という問いを置き去りにしたまま、
産業の発展と経済の成長、利便性の向上という近代人の夢想と結びついてしまった。…
核の世界は神の領域 自分は神ではないことをわきまえている人間の徳を「謙虚」という」
「「水車小屋の男」
科学や技術の目的とは何か
粉ひきの目的は粉をうまくひくことである。
この目的を忘れてしまい、臼や車や堰や水についていくら考えてみても…それがいくら論理的で
すばらしくあっても…
(著者は姜尚中さんの『悩む力』を引用して述べる)「科学はわれわれがなにをなすべきかについて
なにも教えてくれない…
人間の行為がもともと持っていた大切な意味をどんどん奪っていく」
…
真善美はもともと一体のものであったのに、真、ことに科学的真だけが独走し、
善と美が置き去りにされたような状態になっている」
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ずっと昔から言い古されてきたから今では陳腐に聞こえる言葉、
「人間の善き生」「真善美」が、老いた私には痛切に胸に刺さった。
(老人になるまで、この現実社会で生き抜くことに精一杯だった。
「人間の善き生」や「真善美」について真剣に悩むことはなかった)
「善き生」を目指せば「真善美」はついてくるだろうし、「真善美」を目指せば
「善き生」となるに違いない。
「真、ことに科学的真だけが独走し、善と美が置き去りにされたような状態」にも
何度も深くうなずかされた。
「人間の行為がもともと持っていた大切な意味をどんどん奪っていく」とともに。
今日の俳句
否応も なく正月の 来てゐたり 芝 尚子