不意に思い立ち、いつか病に伏したときに懐かしもうと思い写真を整理している。
(病気で寝たらそれどころではないだろうが、整理作業に没頭していて、新たに気づいたり、改めて
思うという「副産物」があった。
もちろん、「整理」するほど多くなったのはデジタルカメラを使うようになってから)
写真は、たまに子どもや孫たちがわが家に来たときやもっとたまの旅行以外の、
近辺の外出、散歩、散歩も兼ねた図書館通いで撮影したもので圧倒的に植物が多い
植物たちは毎年、だいたい同じところ同じ季節に芽吹き、花咲き、枯れる。
私たちは目に入ったときだけ、自分の意識にとまったときだけその存在を感じる
が、植物たちにとっては人間なんて関係ない。
(植物たちは、その時その場をたんたんと生き、死んでいく。そうして種として命を繋いでいく)
ある日ある時ある場所で、自分というある人間が、個別のある植物に遇う。
「遇う」ことで関係(「縁」)のようなものが生まれる。
生まれてしまった以上、その植物はその時その場の自分に「関係ない」わけでは
ないと思う。
(人と人との出あいもそう思う)
と、まぁ私は屁理屈をグダグダ述べるけれど、ツレはそういうことを感覚で
とらえている気がする。そういうことを感じているのだろう。
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厖大な植物写真の整理をしていて、出遇いの不思議や奇跡という感嘆とともに、
彼女の感覚、感性の敏感に改めて驚いた。
小さな世界を切り取ったものが多いのだ。
こういうのが軽々、千枚を超えている。
(3回にわたり紹介します)
今日の俳句
顔中の 皺をあつめて 寒さいふ 大野林火