今日は熊谷晋一郎さん(脳性まひの障害者で職業は大学の先生)です。
(この対談もすごく考えるところがありました。
力量不足でうまくまとめて書けないことをお許しください)
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「知」と「信」
① (ご自分が障害者であることに対して)
苦しんでいる自分は変わらないけれど、そういう自分を第三者の目で俯瞰できるようになる。
(このことは)「知性」(の働きによるものであり、そうすると)苦しみを抱えながら、
生きやすくなる…
宗教の「神」も「来世」も それらの壮大な物語
② 依存症の本質は「依存できない病」
宗教の場合、そこでわが身を丸ごと物語に委ねる、つまり、「信じる」へのジャンプが必要…
③ (現代の日本は)
「迷惑を掛けない」という価値観は美徳である(といわれるけれど)同時に…傲慢の表れ…
都市の大原則は「人に迷惑を掛けない限り、何をしてもいい」…
われわれの社会はあるときから、「節度ある弱者」を求めるようになった気がします。
「一定の支援をするから、それ以上は要求しないでね」というバリアを張り始めたような。
(熊谷さんは「「支援」の名のもとに囲い込まれ」と表現される)
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①②③、どれも言われていることに深く何度もなずいた。
私は屁理屈はこねるけれど自分を知性的とは感じず、
よく拝むけれど信心深いとは思っていない。
「知」にも「信」にも欠けている。
が、少しくらいあると思う。
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■ ① 自分も障害者なので実感するほどよくわかる。
障害を負い、これまで簡単・自然に出来ていたことが「これは妄想?」というほど
出来ないか、出来にくくなった。
そんな「自分は変わらな」くても、「そういう自分を第三者の目で」眺めている
もう一人の自分を感じる。
すると、ちょっと障害と距離をおける。
障害に遭わなかったら、どうしていた(どうなっている)だろう?
障害そのもののこと、自分を含めた障害者のこと、障害者でない「普通」の人…
いろいろと考え、想像した。
(考え想像する「知性」が少しはあると思えた)
■ ② 私は特定の宗派の「信者」ではないが、「仏教者」だとは思っている。
(キリスト教など他の宗教は出会う機会がなかっただけ)
この頃になって、宗教の「信」「信仰」の大切さを強く感じるようになった。
(そこまで「ジャンプ」できた。
「知」を超えなければ「信」には至れない。
ところで「依存」も「信」の一つの形だと思う)
その「依存」は、よくないことのように言われがちであるが、「委ねる」ことは
必要な場合があると、障害者、そして老人となってからよく感じている。
■ ③ 「人に迷惑を掛けない限り、何をしてもいい」
「節度ある弱者」
どっちの言葉も胸に強く響く。
今日の一句
大根の 白さは生きる 白さ 中村明子