今日は
河合さんの①〈命の不思議〉、細谷さんの②〈少子化の中の子どもの死を…〉、
養老さんの③〈…スピチュアリティ〉について。
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① 〈命の不思議〉 河合隼雄
・(河合さんは「科学の知と神話の知」ということ項目で、人間同士の)関係の中で考えた知恵を
「神話の知」(といい、それは)「神話で語(られ)る」(という。そして)
関係をきっぱり切って考えるのが「科学の知」(と)
・(「行き先が分からない現代」という項目では、生き生きと生きている人は「安心している」
といわれる)そりゃ私は安心しています。私は死んでから行くところがちゃんと分かっているから…
(続けて)ユングは言っている「(現代人は)行く先が分かっていない(から)イライラ、
せかせかしている。死亡率は誰でも100%。なのに「皆死ぬのに行き先を知らなさすぎる」」
(だから)「神話の知」(が求められると)
河合隼雄さんは逝かれて久しいが、どの著作でも「心」や「魂」の大切さを
しつこいほど強調されていた。
(いまは「猫も杓子も」の流行みたいな感じになり、薄っぺらな印象を感じさせるものさえある)
「心のケア」の必要も、ずっと前から説いておられた。
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「関係をきっぱり切って考えるのが「科学の知」」
「頭ではわかっているが、割りきれない」といういい方がある。
「割りきれない」のは心であり身体だ。
「心」と「身体」を二分し、対立的に捉えられることがあるけれど、
「頭」に対して、「心」と「身体」は共同戦線を張る。
(というか、大きく見れば「心」は「身体」の一部、「身体」に含まれる)
「頭ではわかって(理解できて)」いても「心」や「身体」は「割りきれない」、
モヤモヤする、すっきりしない、納得できないのだ。
(「脳死問題」のむずかしさもここにあるのだろう。
脳《頭》が機能しない=死んでいるのだから「死んでいる」と「頭」では理解しても、
心臓という「身体」は動いている=機能している=死んでいないのだから「死んでいない」と
「心」は感じる)
河合さんも、この本の編者柳田さんも「物語」の大切さをよく説かれる。
(人間同士の)関係の中で考えた知恵、つまり「神話の知」という物語(ここでいう
「神話」は狭い意味の「神話」ではなくフィクション、想像などの自分が主人公のストーリー)を
創ることによって(完全には「割りきれ」なくとも)納得はできる、受け入れられる
ようになるのではないかと。
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「私は安心しています。…死んでから行くところがちゃんと分かっているから」
ここを読むなり、すごく大事なことだと思った。
現代生きる私たちは、よほど何か我が身に染みる出来事が起こらないと「宗教」
「信仰」とは疎遠になってしまいがちだ。
(私は思春期ごろから神仏を思うことはあったけれど、「信仰」するほどではなかった。
いまは、障害者になるようなことがあったので「信仰」するまでになった。
「信仰」といっても合掌し、神仏天など大いなるものに感謝し祈るだけ)
だが、いまの日本ではお金さえあればほとんどのことが叶うから、別に「宗教」
「信仰」がなくとも大丈夫らしい。
(「政治資金裏金問題」を見聞きしているとホントにそう思う。
神仏を信じることと金儲け《ましてや人を騙す》とは絶対両立しないと思うけれど、
話題の国会議員たちの心には神も仏も棲んでいないのだろう。
《ボスAがいなくなったのでいまは恐いものなしか》)
死ねばすべてがオシマイ、無…と科学を信じれば(尤もそれを「科学的」というなら)
科学的に「割りきった」、合理性・効率重視、現世享楽の人生が理想となる。
でも「死んでから行くところがちゃんと分かって」おり、「安心」して人生を
過ごせるだろうか。
(まっ、そういう人々には「死後の世界」も無いから「安心」も「恐れ」もないか。
私はまだ完全ではないが、若いころよりちょっと、あの世を信じられるようになった気がする。
温泉に浸かったときの「あ~ぁ極楽ゴクラク…」のお花畑の世界に往生できるような立派な人生を
生きてきた自信はないが人を騙したことはないので、安心している)
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② 〈少子化の中の子どもの死を通して、この国のこれからを考える〉 細谷亮太
・若い世代に伝えたい、生きることへの「後ろめたさ」…
ある程度の歳になったときに、亡くなった人のことを考えて「うしろめたさ」を感じる(ことが大事)
長く生きているということへのうしろめたさ(を感じると)悲しみや儚さへの共感が生まれる
「生きることへの「後ろめたさ」」という言葉がとても強く心に残った。
細谷さんは著名な小児科医で、まだちょっとしか生きていない、生きるか死ぬか
というたいへんな病気を抱えた子どもたちを長年診てこられたこの方ならではの
言葉。
「長く生きているということへのうしろめたさ(を感じると)悲しみや儚さへの
共感が生まれる」
医学・医療やバイオ技術の目ざましい進歩で寿命も長くなったこともあってか、
いまではて「不老不死」も現実感が増したといわれる世の中。
それも「アンチエイジング」もいいけれど、「ある程度の歳になったときに」は
「長く生きているということへのうしろめたさ」を感じられるようでありたい。
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・感覚の世界は、客観的な世界ではない
現代社会においては、誰一人として同じ姿を見ている人はいないのだということを忘れさせる装置を
徹底的につくっています。
・スピチュアルというのは、一人ひとり人間は違う、そこから来ているのです。
感覚に関していうなら、皆さんは一人ひとり、他人とは違う世界を必ず生きていて、
死ぬまで違う世界にしか生きられないのです。
・情報化社会の最大の特徴は、…感覚的な違いというものを、消してしまうということです。
養老さんは大学の解剖学の先生を長くやってこられ、死体といつも向き合っていた
こともあるのか、この方の世界観や人生観には、徹底して「身体」から発している
というものを感じる。
「電脳」、コンピューター的な思考、つまり脳が心(心も身体に含ま、それがなすワザ
といえる)に先立つ(優先する)あり方を徹底的に排除される。
もちろん私たちは(ある地域、国に関しては)同じ世界を生きているわけだけど、
「感覚に関していうなら…一人ひとり、他人とは違う世界を必ず生きてい」る。
感覚、感情、心なくして人間は成立しないから、すなわち、私たちは、
「一人ひとり、他人とは違う(自分だけの)世界を必ず生きてい」るわけだ。
(世間との交流がいまではほとんどない私には、ブログでの世界はバーチャルだけど、確実な世界に
なっている。「一人ひとり、他人とは違う(自分だけの)世界を必ず生きてい」るということを
強く感じる)
「スピチュアルというのは、一人ひとり人間は違う、そこから来ている」
この言葉も強く心に響いた。
今日の一句