この前、いろいろな物書きの人のエッセイ集を読んでいたら、
一つだけ心を揺さぶるものがあった。
私はお名前も知らなかった小池昌代さんという詩人で、「かたじけない」という
題名だった。
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「かたじけない」という言葉は、時代劇なんかで侍が言うのを耳にするくらい。
現代では(わざと使ってみる場合もあるけれど)ほとんど使われない。
小池昌代さんは言葉を大事にされるので、「かたじけない」が気になっていたが、
あるとき同じ詩人、飯島耕一さんが『白秋と茂吉』という自著の中で、
「かたじけない」について北原白秋が書いていること、それへの飯島さん自身の
思いも知り、深く心を動かされた。
エッセイはそのことが書かれていた。
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初めに北原白秋の『雀の生活』という一文が紹介される。
(グーグル画像より)
「「雀を観る。それは此の『我』自身を観るのである。雀を識る。
それは此の『我』自身を識る事である。
雀は『我』、雀は『我』は雀、畢竟するに皆一つに外ならぬのだ。
かう思ふと、掌が合わさります、私は。」…
「一個の此の『我』が、此の忝い《かたじけない》大宇宙の一微塵子であると等しく、
一個の雀も矢張りそれに違い無い筈です。
霊的にも、肉的にも、一個の雀に此の洪大な大自然の真理と神秘とが包蔵されてゐる、…」」
続いて飯島耕一さんが『白秋と茂吉』という本の中で、白秋の雀についての
この思い、考えに自分自身が強く惹かれたことを書いておられるのを紹介される。「「このかたじけない大宇宙と白秋は言う。
宇宙存在を思って『かたじけない』と言えた白秋とは一体どのような人だったのだろう。…
白秋の持っていた心というものを、われわれは失ったのだ。
われわれは自分が何かを失ってしまったという空白感にたえず内心で脅かされているが、
それはたとえばこの白秋の『かたじけない』という心であるにちがいない。
われわれが失ったのは白秋だ。」」
そして小池さん自身、
「白秋が、このむしろ地味な、日常的な鳥に、ここまで心を寄せているのが、意外であり、
うれしくもあった。」と。
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「かたじけない」から「畏れ」という言葉を連想する。
敬虔な気もちで生きなきゃと思うけれど、たまに思うだけに終わっている。
散歩や買い物で歩いていると田んぼや畑、原っぱに、電線にとまっている小鳥が
見える。雀と分かると「スズメだったかぁ…」で終わる。
それは悪いと思うから心で謝る。「ゴメンなさい」
今日の一句
骰子(さいころ)の 一の目赤し 春の山 波多野爽波