カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.5.24 『痴呆を生きるということ』(前)

認知症

私が若いときはいまほどいわれていなかった。

(昔は長生きする人が多くはなかった。

その昔は「痴呆」と呼ばれていた。そっちの方が私には馴染みぶかくピッタリくる。

 

どう呼ぼうと、頭、脳が「痴呆」状態になったから、結果として「認識」「認知」がむずかしくなった

ということだ。

そういえば議員さんが「認識にございません」「記憶にない」と言うのは、よく考えれば

「自分は痴呆状態」だから理解できない、忘れたと表明しているようなものだろう。

だったら即刻、議員は辞めるべきだと思う。

「秘書が勝手にやった」というのも、管理能力がない、あっても衰えたということで、痴呆状態までは

至っていないにしても、やっぱり辞める方がいいと思う)

 

これまでも認知症のものをいくらか読んで考えさせられたが、

書く人によっていろいろな刺激があり、学ぶことがたくさんある。

こんどは、『痴呆を生きるということ』  小澤 勲 

 

(グーグル画像より)

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いつものように心の強く響いた言葉、部分だけを書きます。

(「前」「中」「後」の三回に分け、今日は「前」。

便宜的に番号をふりました)

 

①〈痴呆を病む、痴呆を生きる

中核症状の成り立ちは脳障害からの医学的な言葉で説明するしかないが、周辺症状を理解するには、

痴呆という病を生きる一人ひとりの生き方や生きてきた道、あるいは現在の暮らしぶりが透けて見える

ような見方が必要になる。

②〈生き方としての痴呆

(あなたが痴呆になったら)やさしく肩を抱いてくれるような人が隣にいる場合と、…

怒鳴りつけられるような場合では、…行動はまったく違ったものになりそう

認知症ケアの先達、室伏君士の言葉「いちばん大事なのはその人たちへの「畏敬の念

③〈不如意の感覚

・痴呆を病む者は自らのつまずきに一見、恬淡としており、それがいっそう周囲のいらだちを招く

(彼らは)感情を失ったのではない

一つ一つのエピソードは記憶に残っていないらしいのに、そのエピソードにまつわる感情

蓄積されていくように思える。…漠然とした感覚は確実に溜まる


④〈
中期痴呆の世界

「聖なるもの」との出会い)→規範からの逸脱は、見様を変えれば、規範へのとらわれからの

自由である。身体的無残も、見る者によっては人間を限界づける身体性からの超越と映る。

そして、何よりも、ともに過ごした時間が、悲惨を「この世ならぬもの」「聖なるもの」に変化させ

いとおしさを生む。

⑤〈重度痴呆者のつぶやき

(会話はほとんど成り立たないのに)つぶやかれるひとことが、ときに私たちを震撼させる。

あまりに状況を的確に射抜いていると感じさせるからである。

⑥〈拠りどころを失った不安

(「周辺症状」としての)攻撃性に目を奪われず、彼らの不安に寄り添うような面接に切り換えると

表情は途端になごみ、堂々めぐりの言説が初めて転換をみせる。

⑦〈喪失感攻撃性の狭間で

もの盗られ妄想を抱く人たちもまた、二つの感情に引き裂かれている。

喪失感と攻撃性の狭間で揺れ動いている

どんなに強い攻撃性をあらわにしているときでさえも、身の置き所がないといった不安な表情

をかいま見せる。

(そういうことに共感し、理解しなければならない)

⑨〈生活世界に根ざす心理

彼らの妄想(典型的な「周辺症状は現実世界に根ざしている

喪失感からくる。それが妄想の根底にある本質的な感情

⑩〈老いを生きる

ケアに当たる人は年下で、老いることの哀しみや重みを身に沁みてはわかっていない…

(たとえば、老いれば筋肉が衰えて転倒しやすく、骨折しやすい。それをきっかけに寝たきりにも

なりやすい。転倒という)ほんの小さなゆらぎが全体を巻きこむ大きなゆらぎをもたらす。

これが老いの常

⑪〈痴呆を生きる

痴呆を「過程」として動詞としてとらえる

⑫〈徘徊の出現

(徘徊は)場所への見当識障害は明らかになり、行動障害が前景に立つ(ということだが、

止めさせようと「発熱に解熱剤的発想」してはいけない)

徘徊は一つの事象ではない

→(徘徊には「なじみのない場所に置かれることによって生じる見当識障害とその不安から生じる

という反応性の徘徊」、「いつもと違って目つきがギョロギョロぼんやりした意識障害が幻視に

つながるので注意を集中して見つめると意識レベルが上昇して幻視が消える あるいは「大丈夫だよ、

私がついているからね」と話しかけたり、添い寝する」とよい「せん妄による徘徊」がある)


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多くのことがどこかで聞いたし、わかっていると思っているけれど、

いざ現実にわが身や近くで起きたら、慌てふためき、それまで知識としては

理解していても、すぐには実践できそうにはない。

(ただ頭の中だけの知識ではあれど、咄嗟には実行できなくても、時間をかけるうちに現実に慣れ

「あっ、そうだった」と反省し、やり直す手立てにはなると思う)

 

初めの①、②、③がとくに強く胸に迫った。

 

その人の「周辺症状を理解するには、痴呆という病を生きる一人ひとりの生き方や

生きてきた道、あるいは現在の暮らしぶりが透けて見えるような見方」を

しなければならない

 

畏敬の念」を持って認知症、痴呆の人に接する。

 

そのエピソードにまつわる感情蓄積されていく

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ツレが脳梗塞を発症してから1年ちょっとが過ぎた。

私は「大丈夫だいじょうぶ…」とことあるごとに言い、接してきたけれど

(「大丈夫」というのは「認知症」、痴呆にはならないよ、心配せんでもいいという意味だけでなく

なっても《私が先になるかも》いいよという意味も込めてのこと)本人は心配している。

「私の言っていること(していること)ヘンじゃない?」と聞くことがある。

そんなことないと返しても、少し間をおいてまた「ヘンじゃない?」と同じこと

言う。

(彼女の心配性の責任は私にあると思っている。こっちが頼れる存在だったら安心できるのに…

これまでいろいろな、間の抜けたこと、いい加減なことをいっぱい繰り返してきたせいで、

私の言う「大丈夫」はあまり信じられないからに違いない。

彼女は私とは真反対に几帳面で真面目だから、よけいに「ヘン」が気になるのだろう)

 

認知症、痴呆は(若年性というのもあるけれど)身体が老いる(長く使う)という

自然の流れで起きるものだから(そうはいえ、元気・病気がちは人それぞれ)起きた、

なったときに考えれば(そのときは「思考力」は落ちていて考えられないかもしれないが、

私は「落ちている」ことがいい)いいと思う。

 

認知症、痴呆を経験してみる(そのとき、「経験」しているという意識はあるのだろうか)

のはおもしろそう、(ちょっとムリしてでも)そう想おう。

(客観的に)周囲にはちょっと迷惑、苦労をかけるかもしれないけれど、

なるのもならないのも自分では決められないので、なったらなったで仕方ない。

 

 

 

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                       ちりとてちん

新緑の 風にゆらるゝ おもひあり  飯田蛇笏

 

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