カメキチの目
私の故郷は朝ドラ『ひよっこ』と、どっこいどっこい。「奥」こそつかない地名だが、より山ぶかく、いなか度では勝っている。
主人公たちと時代環境もよく似ているから、テレビをみていて「あーあ…」と首を縦にふる場面も多い。
みね子の祖父は稲わらで綱をあんでいますが、私の故郷では草鞋(ワラジ)をあむ年寄りもいました。
みね子たちの奥茨城での生活はとても身ぢかに感じたが、東京に場所がうつると、「へっ! 東京ではすでに…。知らなかったなぁ」という話が立てつづけに出た。
・たとえば電話機。
みね子たちの実家は貧乏なので電話機のある家で借りるのだが、それはロボットみたいな格好した電話機で、電線(コード)が伸びた受話器を耳にあてて聞き、電話機本体の(ロボットの)口元部分が送話機なのでそこに向かってしゃべる。
が、東京ではすでに送・受一体型の今の形の固定電話が登場していたようだ。
私は中学校を出てから寮生活したことがあり、そこもロボット型の電話機でした。
しかし、誰(おそらく母でしょう)となにを話したかはまったく覚えていない。でも、声という音声がこの瞬間、この場とほかの場所をつないでいるということがフシギでならなかったことは覚えています。
のちに科学的・原理的には納得できても、フシギはフシギ。その感覚はケータイ・スマホのいまも変わりません(電波・音波は見えないし、におわない)。
・たとえばビートルズ。
・たとえばラジオ・テレビ
奥茨木でもそうだっただろうと思うけれど、いなかには昭和35年、36年くらいまではラジオしかなかった。ラジオが唯一の情報源(新聞もあったのだろうが貧しくてとっていなかった《私の家では本というものは教科書いがいはなかった》。きわめて身ぢかな話だが、新聞紙がなければ便所紙は何だったのだろうか?)、娯楽だった。
小学3年年生のとき(大人になって知ったことだが、そのころのわが家は抵当に入っていたようで、母と私たち《弟と私》は母の実家近くの借家に住んでいた。父は仕事で離れて住んでいた)、父が新品のラジオを持ってきてくれたのをすごく喜んだのを鮮明に覚えている。
そのラジオが日立製だったこと、当時は子ども向けラジオドラマがあったことも。
テレビの登場はその翌年ころだった。どこそこのウチがテレビを買ったとの噂(情報)はせまい村のこと、すぐに入り(子どもの耳にも)、当然の「権利」(もちろん、そういう言葉は知りませんでした)のように、「こんばんわ(と挨拶しただろうか。自信はない)。テレビみせてください」と玄関先にたち、土間をぬけ座敷に上がりこんだ。
テレビに向かって正座をして、行儀よくみていたのは確かです。
少年を卒業してから首をかしげることの一つに、テレビの視聴に近所のガキどもが大挙うち寄せたカネ持ちの家はどんな思いだったのだろう?
親切におやつ(それが何だったのかは思いだせない)まで出してくださる家もあった。
そうそう、ラジオの話ですが、そのころが「60年安保」だったのでしょう。ラジオのスピーカーから聞こえた「アンポ」という言葉が「アンポンタン」を連想させ、覚えていました。
そのうちわが家もテレビ購入。「みせてください」と言わなくてよくなったのは、それから2,3年後だったか。
電話、ラジオ、テレビのことに触れましたが、たまたま読んだ本の「現代文明批評」が思いだされました。
そこには「現代はコピーいちばん」、すべて1と0というデジタル、コンピュータの原理で成り立っていると。著者は現代文明の底の浅さ、軽薄さを述べていました。少々荒っぽい話でしたが、本質はそうだなあと私はすなおにうなずきました。
0か1、その配列ですべてを表し、「表す」のが可能だからそのコピーは無限だという。「コピーか…」。しばらく考えこんだ。
「生きる」というのはアナログで、一度かぎり。ぜったい、コピーできないもんだが…