カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.10.13 「もう、乗り遅れても良いだろう。」 

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久留米じぃじさんという敬愛している方のブログがあります。

先日の記事に

「もう、乗り遅れても良いだろう。」

というのがありました。

このタイトルをひと目見るなりクスッとしました。

(じぃじさん、同じ題名を使ってゴメンなさい)

 

久留米じぃじさんは身のまわりのことを中心に、感じ、思い、考えたりされたこと

毎日書いておられ、文章の温かさにお人柄がとてもよく感じられます。

(ほぼ必ず「家人」という呼び名でご夫人が登場される)。

 

たまたま初め頃からの読者であるので、タイトルがちょっと抽象的でも、きょうは

こういうことを言わんとされているのかなと想像したらおおかた当たっていました

 

noritomi294.hatenablog.jp

  

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 乗る相手は「バス」でなく、「時代の波」。

 

 バスなら乗らない手もあり、歩けばいい。

(よけいな話だけど、かつてヒトにもサルと同様、尻尾があったのに使わなくなり

用がなくなって、尾てい骨として「尻尾のおもかげ」だけが残ったらしい。

ますます歩かなくなるヒト。何十万年さきには進化《「進化」というなら》して

足・脚が退化したらどんな姿になるのだろう?

そんな気の遠くなる先は、《どこかの星に移住し、まだ生きのびていたとしたら》

その星の環境に適応しているだろうからまた違うだろうか…と想像した)

「時代遅れ」も自分個人だけですめばそれでよい。

けれど、みんなでする仕事となるとそうはいかない。

  

 記事にあったコピー機ワープロパソコンなど、

思いあたるふしが大ありで、何度もうなずいた。

いまの若い方はご存知ないだろうけど、コピー機の登場までの古い複写のしかたは

原紙元の紙)にうすい空色の複写用紙を重ね、複写機(簡単な造りで小さい)

に通し、重ねた2枚が出てきた。

(「複写用紙」は専用の化学的タネが施してあり、複写された文字や図柄

うす青色になるのでこのコピーを通称「青焼き」と言った)

 

コピー作業はコピー機の登場で便利で楽になり喜んだが、ワープロになると違う

キーボード打ちが上達しなかったことではない。それもあるが)。

普通に書いた字が汚いとはいえ、ていねいに書けば相手にきちんと読んでもらえる

自信はあったけれど、当時の仕事は役所に向けて文書を書くことが多く、役所は

内容より体裁を重んじるところだからワープロ文字の方が相手に印象が良いと、

役所下りの上司に言われてしぶしぶ使った。

(後にパソコンを使うようになり、インターネットを利用する「コピペ」を知り、

手書きではとうてい太刀打ちできないことがわかった。

《キーボード打ちは当時から一向に上達せず、いまは目の衰えと障害も重なり、

遅さに加えミスは圧倒的に増えている》

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 若いころアルバイトしていた職場で、それまでは

売り上げなどの計算にソロバンを使っていた。

 あるとき電子卓上計算機(電卓)が登場し、ソロバン

に代わるようになった。

社員さんの中には、「俺はこれからもソロバンでやる」「こっちが慣れているし、

れで十分」と言われる方もいた(いつまで使われただろう?)。

 

 電卓が与えた印象は強烈だったので、私の実感では

電卓の登場によりデジタル化(コンピュータ化)始まった

気がしている。

(時計もデジタル表示 のものが出たが、時計自体は針の動くアナログのものが

いまも多いところを見ると、時が刻まれてゆく、移りゆく感覚が心地いいのかな。

 

「2020年、政府にデジタル庁誕生」。まああれから半世紀近く経っているから、

ハンコは印章文化・工芸としてたいせつに引き継がれていっても、「確認」や

「決済」からは引退していってもしかたないのかな)

 

 電卓の出現当時は、まだ高度経済成長期だった

思うので、それで高度経済成長」のことを連想した

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高度経済成長」私的実感エピソード。

 

 始まりは、(実際はもっと前を指す私の実感では東京

オリンピックの少し前くらい。

 わが家でもテレビを購入でき、自分の家で観られる

ようになり、冷蔵庫も購入し、夏の暑いときでも氷を

食べられるようになった

氷をほおばると冷たさで口内が痺れ痛くなった。そのうち、舌でころころ回せば

いいとわかった。冷たい刺激が爽快で、そのときの感覚がいまも忘れられない

 

 そのころ、父が山の所有者から頼まれて木の伐採を

請け負うという一人親方林業をしていた。

 重い木材を運びださなければならないときだけ

(御者)(馬車)を雇っていた。

 そういう日の夕暮どきは、大きな仕事を無事終えた

満足感、安心感もあってか、御者さんと縁側に腰かけ

酒を酌み交わしていた。

 しかし、60年代も終わりごろには、外国産の安い

木材に押され日本の林業は父のような者は仕事が

なくなり、田舎の労働者(日雇い)ならざるを

得なかった。

 

 高度経済成長は、都会から地方の奥地へ伝わるのに

年単位の長い遅れがあったと思われる。

都会での生活の進歩など、ずっと遅れて田舎に届いた。

ひと口に田舎と言っても、テレビジョンも初めは裕福な宅だけにあり、私などは

テレビ観させてください」と、子ども心に「すまない」と思いながらズケズケ

上がり込んで観させてもらう口だった。

夕食どきでなければ、相手がいたいけな子どもだから仕方ないとはいえ、たいてい

嫌な顔ひとつされず迎えられた。ましてや、追い出された覚えはまったくない。

(なかにおやつまで出される家があり、テレビを観ながらおやつという夢のような

時間を味わった)  

 

 

 

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                         ちりとてちん

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